ては別に往来《ゆきゝ》もない処で、人目にかゝる気遣いはないからというので、是から合図をして藪蔭へ潜《くゞ》り込み、
若「春部さま」
梅「あい、私《わし》は誠に心配で」
若「私《わたくし》も一生懸命に信心をいたしまして、貴方と御一緒に此の外へ出てしまえば、何様《どん》な事でも宜しゅうございますけれども、お屋敷にいる内に私が捕《つかま》りますと、貴方のお身に及ぶと存じて、本当に私は心配いたしましたが、宜《よ》く入らしって下さいました」
梅「まだ廻りの来る刻限には些《ちっ》と早い、さ、これを下りると川端である、柵が古くなっているから、直《じき》に折れるよ、裾《すそ》をもっと端折《はしょ》らにゃアいかん、危いよ」
若「はい、畏《かしこま》りました、貴方宜しゅうございますか」
梅「私《わし》は大丈夫だ、此方《こちら》へお出《い》でなさい」
 と是から二人ともになだれの崖縁《がけべり》を下《お》りにかゝると、手拭ですっぽり顔を包み、紺の看板に真鍮巻《しんちゅうまき》の木刀を差した仲間体《ちゅうげんてい》の男が、手に何か持って立って居《い》る様子、其所《そこ》へ又一人顔を包んだ侍が出て来る。若江春部の両人は忍ぶ身の上ゆえ、怖い恐ろしいも忘れて檜《ひのき》の植込《うえごみ》の一叢《ひとむら》茂る藪の中へ身を縮め、息をこらして匿《かく》れて居りますと、顔を包んだ侍が大小を落差《おとしざし》にいたして、尻からげに草履《ぞうり》を穿《は》いたなり、つか/\/\と参り、
大「これ有助」
有「へえ、これを彼《か》の人に上げてくれと仰しゃるので、へい/\首尾は十分でございましたな」
大「うん、手前は之を持って、予《かね》ての通り道灌山《どうかんやま》へ往《い》くのだ」
有「へい宜しゅうございます、文箱《ふばこ》で」
大「うん、取落さんように致せ、此の柵を脱《ぬ》けて川を渡るのだ、水の中へ落してはならんぞ」
有「へえ/\大丈夫で」
大「仕損ずるといけんよ」
有「宜しゅうございます」
 と低声《こゞえ》でいうから判然《はっきり》は分りませんが、怪しい奴と思って居ります内に、彼《か》の侍はすっと何《いず》れへか往ってしまいました。チョンチョン/\/\。
廻「丑刻《やつ》でございます」
 と云う廻りの声にて、先の仲間体の男は驚き慌てゝ柵を潜《くゞ》って出る。春部は浮気をして情婦《おんな》を連れ逃げる身の上ではありますが、一体忠義の人でございますから、屋敷内に怪しい奴が忍び込むは盗賊か何だか分りませんから、
梅「曲者《くせもの》待て」
 と云いながら領上《えりがみ》を捕《とら》える。曲者は無理に振払おうとする機《はず》みに文箱《ふばこ》の太い紐に手をかけ、此方《こなた》は取ろうとする、彼《か》の者は取られまいとする、引合うはずみにぶつりと封じは切れて、文箱の蓋《ふた》もろともに落たる密書、曲者はこれを取られてはならんと一生懸命に取返しにかゝる、遣《や》るまいと争う機みに、何ういう拍子か手紙の半《なかば》を引裂《ひっさ》いて、ずんと力足《ちからあし》を踏むと、男はころ/\/\とーんと幡随院の崖縁《がけべり》へ転がり落ちました。其の時耳近く。
廻「八《や》つでございまアす」
 と云う廻りの声に驚き引裂《ひきさ》いた手紙を懐中して、春部梅三郎は若江の手を取って柵を押分け、身体を横にいたし、漸《ようよ》うの事で此処《こゝ》を出て、川を渡り、一生懸命にとっとゝ団子坂《だんござか》の方へ逃げて、それから白山通《はくさんどお》りへ出まして、駕籠《かご》を雇い板橋《いたばし》へ一泊して、翌日|出立《しゅったつ》を致そうと思いますと、秋雨《あきさめ》が大降《おおぶり》に降り出してまいって、出立をいたす事が出来ませんから、仕方なしに正午過《ひるすぎ》まで待って居りまして、午飯《ひるはん》を食《たべ》ると忽《たちま》ちに空が晴れて来ましたから、
梅「どうか此宿《こゝ》を出る所だけは駕籠に仕よう」
 と駕籠で大宮までまいりますと、もう人に顔を見られても気遣いはないと、駕籠をよして互に手を引合い、漸々《だん/\》大宮の宿《しゅく》を離れて、桶川《おけがわ》を通り過ぎ、鴻《こう》の巣《す》の手前の左は桑畠で、右手の方は杉山の林になって居ります処までまいりました。御案内の通り大宮から鴻の巣までの道程《みちのり》は六里ばかりでございます。此処《こゝ》まで来ると若江は蹲《しゃが》んだまゝ立ちません。
梅「何うした、足を痛めたのか」
若「いえ痛めやア致しませんが、只一体に痛くなりました、一体に草臥《くたび》れたので、股《もゝ》がすくんで些《ちっ》とも歩けません」
梅「歩けないと云われては誠に困るね、急いで往《い》かんければなりません」
若「も往《ゆ》けません、漸《ようよ》う此処まで我慢して歩いて来ま
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