女の名は菊といやアせんか」
縫「はい」
富「左様だろうな」
 お縫|揉手《もみで》をしながら、
縫「菊という名に一寸《ちょっと》なった事もあります」
富「一寸成ったとは可笑《おか》しい隠しちゃアいかん、その菊という者は此方《こちら》にも少し心当りがあるが、親の家《いえ》は何処《どこ》だえ」
縫「はい」
富「隠しちゃアならん、お前に迷惑は掛けん、これは買入れるに相違ない、今代金を遣るが、菊という者なればそれで宜しいのだ、菊の親元は何処だえ」
縫「はい、誠にどうも恐入ります」
富「何も恐入る事はない、頼まれたのだから仔細はなかろう」
縫「親元は本郷春木町三丁目でございます、指物屋の岩吉と申します、其の娘の菊ですが、その菊が死去《なくな》りましたんで」
富「うん、菊は同家中に奉公していたが、少々仔細有って自害致した」
縫「でございますけれども、これはその自害した時に着ていた着物ではございません」
富「いや/\自害した女の衣類《きもの》だから不縁起だというのではない、買っても宜《よ》い」
縫「有難う存じます、その親も死去《なくな》りました、其の跡は職人が続いて法事をいたして、石塔や何《なん》かを建てたいという心掛なので」
富「左様か、それで宜しい、もう帰れ/\……おゝ馳走をすると申したっけ、欺《だま》しちゃアならん、私《わし》は直《すぐ》に上《あが》るから」
 と川添富彌は急に支度をして御殿へ出ることになりました。御殿ではお夜詰《よづめ》の方々が次第/\にお疲れでございます。お医者は野村覺江《のむらかくえ》、藤村養庵《ふじむらようあん》という二人が控えて居ります。お夜詰には佐藤平馬、外村惣衞《とむらそうえ》と申してお少《ちい》さい時分からお附き申した御家来|中田千股《なかだちまた》、老女の喜瀬川《きせがわ》、お小姓|繁《しげる》などが交々《こも/″\》お薬を上《あげ》る、なれどもどっとお悪いのではない、床《とこ》の上に坐っておいでゞ、庭の景色を御覧遊ばしたり、千股がお枕元で軍書を読んだり、するをお聞きなさる。お熱の工合《ぐあい》でお悪くなると、ころりと横になる。甚《ひど》く寒い、もそっと掛けろよと御意があると、綿の厚い夜着《よぎ》を余計に掛けなければなりません。お大名様方は釣夜具だとか申しますが、それほど奢った訳ではない。お附の者も皆心配して居られます。いまだお年若で、今年
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