つ》の者を人中《じんちゅう》の鬼畜といって、鬼の畜生という事じゃ、それ故に大梅和尚《たいばいおしょう》が馬祖大師《ばそだいし》に問うて如何《いか》なるか是《こ》れ仏、馬祖答えて即心即仏という、大梅が其の言下《ごんか》に大悟《だいご》したという、其の時に悟ったじゃ、此の世は実に仮のものじゃ、只|四縁《しえん》の和合しておるのだ、幾らお前が食物《たべもの》が欲しい著物《きもの》が欲しい、金が欲しい、斯ういう田地が欲しいと云った処が、ぴたりと息が絶えれば、何一つ持って行《ゆ》くことは出来やアしまい、四縁とは地水火風《ちすいかふう》、此の四つで自然に出来ておる身体じゃ、仮に四大(地水火風)が和合して出来て居《お》るものなれば、自分の身体も有りはせん、実は無いものじゃ、自然に是は斯うする物じゃという処へ心が附かんによって、我《わが》心があると思われ、我《わが》身体を愛し、自分に従うて来る人のみを可愛がって、宜《よ》う訪ねて来てくれたと悦び、自分に背《そむ》く者は憎い奴じゃ、彼奴《あいつ》はいかんと云うようになる、人を憎む悪い心が別にあるかというに、別にあるものでもない、即仏じゃ、親父が娘を殺して金子を奪《と》ろうとした時の心は実に此の上もないノ重悪人なれども、忽《たちま》ち輪回応報《りんえおうほう》して可愛い我子を殺し、あゝ悪い事をしたと悔悟《かいご》して出家になるも、即ち即心即仏じゃ、えゝ他人を自分の身体と二つあるものと思わずに、欲しい惜しいの念を棄てゝしまえば、争いもなければ憤《おこ》る事もない、自他の別を生ずるによって隔意《かくい》が出来る、隔意のある所から、物の争いが出来るものじゃ、先方《むこう》に金があるから取ってやろうとすると、先方《むこう》では私《わし》の物じゃから遣《や》らん用を勤めたら金を遣るぞ、勤めをして貰うのは当然《あたりまえ》だから、先方《さき》へくれろ、それを此方《こっちゃ》で只取ろうとする、先方《さき》では渡さんとする、是が大きゅうなると戦争《いくさ》じゃ、実に仏も心配なされて西方極楽世界阿弥陀仏を念じ、称名《しょうみょう》して感想を凝《こら》せば、臨終の時に必ず浄土へ往生すと説給《ときたま》えり、南無阿弥陀仏/\」
 圓朝が此様《こん》なことを云ってもお賽銭《さいせん》には及びません、悪くすると投げる方があります。段々と有難い事を彼《か》の宗達と
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