襖《ふすま》を明けて女中が見えました。
 女「お銚子がお熱くなりました、誠に大層お静かでございます…お酌を致しましょう」
 友「はい願いましょう、毎度御厄介を掛け、世話をやかしてお気の毒さま、もう私もこれぎり来られまい、遠方へ行《ゆ》きますから、姉さんの顔も是が見納めでしょう」
 女「まア厭でございますねえ、そんな事を仰しゃると心細うございますよ、此の間も久しいお馴染になったお客様がお役で御遠方へお出《いで》になるゆえ、お送り申して胸が一ぱいになりました、いけませんねえ、お村姉さんは度々《たび/\》お客様をお連れ下すって、柳橋にはお村さんより外《ほか》に好《よ》い芸者|衆《しゅ》は無いと宅《うち》のお内儀《かみさん》も云って居りました、お村さんいけませんねえ」
 村「私も一緒に行《ゆ》くような事になりました」
 女「羨《うらや》ましい事ねえ、結句どんな所でも思う人と行っていれば辛いと思うものでございませんよ」
 友「これはほんの心ばかりだが、どうぞ親方とお内儀に上げて下さい、これは女中|衆《しゅ》八人へ、これは男|衆《しゅ》へ、たしか出前持とも六人でしたねえ」
 女「毎度どうも、御心配なすってはいけません、誠に恐入《おそれい》りますねえ、只今親方もお内儀もお礼に出ますからお村さん宜しく」
 友「此の羽織はいらない羽織で、だいなしになって居りますが、毎度板前さんにねえ我儘《わがまゝ》を云いますから、何卒《どうか》上げて下さい」
 女「誠にどうも有難うございます」
 友「此の烟草入《たばこいれ》はくだらないが毎《いつ》も頼む使《つかい》の方に」
 村「此の羽織はいけないのですがあのお金どんに、此の笄は詰らないのですがお前さんに上げるから私の形見と思って指《さ》して下さい」
 女「形見だなんぞと仰しゃると心細うございますねえ、本当に嘘でしょう、本当、まアどうも恟《びっく》りしますねえ、珊瑚樹《さんごじゅ》の薄色《うすいろ》で結構でございますねえ、私などはとても指す事は出来ませんねえ、これを頭へ指そうと思うと頭を見て笄が駈出してしまいますよ、笄には足がありますから、おやこれも、恐れ入りますねえ、少し横におなりなさいまし」
 と屏風《びょうぶ》を立廻《たてまわ》し、枕元に烟草盆を置いて、床を取って、
 女「お休みなさいまし」
 と云って襖を締めて行《ゆ》きましたが、二人は今夜死のうというのですから寝ても寝られません。種々《いろ/\》に思返《おもいかえ》して見たが、死神に取付かれたと見えまして、思い止ることが出来ません。其の内に夜《よ》も段々更けて世間が寂《しん》として来ましたから、時刻はよしと二人はそっと出まして、牛屋の雁木へ参りますと、暮の事でございますから吾妻橋の橋の上には提灯《ちょうちん》がチラリ/\見えます。
 村「友さん」
 友「えゝ」
 村「まだ吾妻橋を提灯が通るよ」
 友「余程《よっぽど》更けた積りだが、そうでもなかったか」
 村「これから二人で行《ゆ》くのだが、私も今日昼過から家《うち》を出たから屹度《きっと》お母《っかあ》が捜しているに違いない、若《も》し人目に懸って引戻されるともう逢う事は出来ないから、迂濶《うっかり》とは行かれないから、此の牛屋の雁木からでいゝから飛込んでおくれな」
 友「此処《こゝ》はねえ浪除杭《なみよけぐい》が打ってあって、杭の内は浅いから外へ飛込まなければならんが飛べるかえ」
 村「飛べますよ、一生懸命に飛込みますから」
 友「浪除杭の外は極《ごく》深い所だ」
 村「じゃア、さア此処から飛込みましょう、お前さん一生懸命に私の腰をトーンと突いて下さいよ」
 友「さア」
 村「さア是で別れ/\にならないように帯の所へ縛り付けて下さい」
 と緋《ひ》の絹縮《きぬちゞみ》の扱帯《しごき》を渡すから帯に巻付けまして、互に顔と顔を見合せると胸が一杯になり、
 友「あゝ去年の二月参会の崩れから始めて逢ってお前と斯《こ》う云う訳になろうとは思わなかったなア」
 村「私のようなものと死ぬのは外聞がわるかろうけれども、友さん定《さだま》る約束と諦めて、どうぞ死んで彼世《あのよ》とかへ行っても、どうぞ見捨てないで女房《にょうぼ》と思っておくんなさいよ」
 友「あいよ/\主人の金を遣《つか》い果たして死ぬのは、十一の時から育てられた旦那様に済まねえけれど、どうか御勘弁なすって下さい、己もお前も親はなし、親族《みより》も少い体で斯うなるのは全く宿世《すぐせ》の約束だなア」
 村「あい、さア、友さん早く私を突飛《つきとば》しておくんなさい」
 と二人共に掌《て》を合せて南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》/\と唱えながら、友之助がトーンと力に任せてお村の腰を突飛すと、お村はもんどりを打って浪除杭の外へドボーンと飛込んだから、続
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