彼《あ》の人の傍《そば》に坐ると厭な心持になりますよ、そうして反身《そっくり》かえって煙管《きせる》を手の先で振廻し、落してお皿を欠いたり、鼻屎《はなくそ》をほじくっては丸薬にしたりして何《なん》だか厭だよ」
 月「そうサ、変な処があるよ、気には入るまいが持物になって仕舞えば又好きな事も出来るわねえ」
 さ「有難いことだから諾《うん》とお云いよ、おい諾と云わないかよ」
 村「厭な事、私は死んでも厭だよ」
 さ「馬鹿な事をお云いでない、お前が諾と云えば私までが楽になるのだから親孝行だよ、それにお前は春の出の姿《なり》に気を揉んで居て一から十まで新しい物にしたがり、彼《あ》の縮緬《ちりめん》のお前さんが知ってる紋付さ、あれを色揚げをして置けば結構だと言えば、紋が黒くなると言うから、そうしたら薄い昇平《しょうへい》を掛ければ知れやしないと云うのに、何《なん》でも新しい姿《なり》ばかりしたがる癖にさ、私などの若い時分と違って好《い》い姿《なり》計りしたがったり、芝居へも往《ゆ》き、したいこともしたければ、諾と云って其の人を取らないと肯《き》かないよ」
 村「でも柳橋の芸者が旦那取りをしたと云っては第一姉さん達の恥になり、私も外聞が悪いから、能《よ》くは出来ないが私だけは芸一方で売る心持でいますから、どうかそんな色めえた事を云うお客はぴったり断って下さいまし」
 月「お村はんが否《いや》だと云うならどうもしようがない」
 さ「おい本当にいけない餓鬼だよ、サ諾と云いな、否か、どうあっても否か、下を向いて返辞をしないのは否なのか、否だなどと云えば唯《たゞ》は置かねえよ」
 と云いながら手に持った長羅宇《ながらお》を振上げさま結《ゆい》たての嶋田髷《しまだまげ》を打擲《ちょうちゃく》致しましたから櫛《くし》は折れて飛びまする。
 月「あゝ危いよ、あれさ怪我でもさしたらどうする積りだよ」
 さ「お止めなさるな、止めると癖になります、太い阿魔でございます、これ何《なん》だと、芸一方で売りたいと、それはお月姉さんのような立派なお方の云う事だ、お前なんぞは今日此の頃芸者になり、一人前《いちにんめえ》になったのは誰のお蔭だ、お前が七歳《なゝつ》の時、親兄弟もない餓鬼を他人の私が七両の金を出して貰い切り世話をしたのだが、其の時は青膨《あおぶく》れだったが、私の丹誠で段々とお前さん胎毒|降《くだ》しばかりも何《ど》の位飲ましたか知れやしません、芸を仕込めば物覚えが悪く、其の上|感所《かんどころ》が悪いもんだから、撥《ばち》のせい尻《じり》で私は幾つ打《ぶ》ったか知れません、踊《おどり》を習わせれば棒を呑んだ化物《ばけもの》を見たように突立《つッたッ》てゝしょうが無かったのを、漸々《よう/\》此の位に仕上げたから、これから私が楽をしようと思ってるに、否《いや》も応《おう》もあるものか、親の言葉を背く餓鬼ならば女郎《じょうろ》にでも叩き売って仕舞います、利《き》いた風《ふう》な、芸一方で売るって私は知らねえ振りをしていれば、手前《てめえ》の好いた男なら上流《うわて》くんだりまで往って寝泊りをして来やアがるだろう、私は知るめえと思ってようが、芝口《しばぐち》の袋物屋の番頭に血道を揚げて騒いでいやアがる癖に」
 月「まア静《しずか》におしよ、世間へ聞えると見《みっ》ともない、お村はんは私が篤《とっ》くり意見をして得心させるから私にお任せよ」
 と泣いて居りまするお村の手を取って二階へ連れて上り、
 月「お村はん勘忍しておくれよ、本当に邪慳《じゃけん》なお母《っか》さんだ、太い煙管でお前の顔を無茶苦茶に打《ぶ》って怪我でもしたら何《ど》うする積りなんだろう、怖いお母さんだねえ、今までお前はまア能くあのお母さんの機嫌を取ってお出《いで》たねえ」
 村「姉さん、誠にお前さんの云う事を肯《き》かないで済みませんが、私も七歳《なゝつ》から育てられ、お母さんの気性も知っていますが、彼様《あんな》邪慳な人は世に余《あん》まり有りません、此の頃のように寒い時分に夜遅く帰って来れば、寝衣《ねまき》を炬燵《こたつ》に掛けて置いて寒かろうからまア一ト口飲めと、義理にも云うのが当然《あたりまえ》だのに、私が更けて帰ると、お母さんは寝酒に旨い物を喰《た》べてグウ/\大鼾《おおいびき》で寝て仕舞い、火が一つ熾《おこ》ってないから、冷たい寝衣を着て寝てしまい、夜が更けるからつい朝寝をすると、起ろ/\と足で蹴起《けおこ》して、お飯《まんま》を炊けと云って御膳を炊くやらお菜拵《かずごしら》えをして仕舞うと、起きて来て朝から晩まで小言|三昧《ざんまい》、ヤレ彼《あ》の旦那を取れ、此の旦那の妾になれと今まで云われた事は何度あるか知れやしないが、漸々《よう/\》云抜けては置いたが、辛くって/\今日は駈出
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