」
忠「へえ」
蟠「便をしたいが、少し向うから人が来るようだから」
忠「宜しゅうございます、私《わたくし》も出たいからお附合《つきあい》をしたい」
蟠「左様《そう》か、そんなら私《わし》が提灯を持ってやろう」
と元より貸提灯でございますから、
蟠「ア、燈火《あか》りが消えるようだ」
忠「消えましたか、困りましたな、一本道だから宜しいが燈火がなくては困りますな」
蟠「うっかりしていた、困ったなア、何処《どこ》かへ往って借りよう、通り道に家《うち》があるだろう、構わず便《べん》をしなよ」
忠「左様《そう》でございますか、宜しゅうございます」
とうっかり向うを向いて便を達《た》そうとする処をシュウと抜討ちに胴腹《どうばら》を掛けて斬り、又|咽元《のどもと》を斬りましたから首が半分落るばかりになったのを、足下《そっか》に掛けてドブーンと溜り水の中に落して仕舞いました。懐中から小菊《こきく》を取出して鮮血《のり》を拭い、鞘に納め、折《おり》や提灯を投げて、エーイと鞍馬《くらま》の謡《うた》いをうたいながら悠々《ゆう/\》と割下水へ帰った。其の翌日文治郎が様子を見て大伴の道場へ斬込もうと致しますと、只今なれば丁度午後二時半頃、文治郎の宅の玄関の前を往ったり来たりして居《お》るのは左官の亥太郎。
森「どうしたえ」
亥「森松か大《おお》御無沙汰をした」
森「旦那がどうしたって心配《しんぺい》をしていらア、家《うち》を間違《まちげ》えたのか、往ったり来たりしている、どうも豊島町の棟梁のようだが、どうしたのかと思っていた」
亥「家《うち》を間違《まちげ》えるような訳で、大御無沙汰」
森「己《おら》の家《うち》に嫁が来た、良《い》い女だよ」
亥「冗談じゃアねえ知らしてくれゝば嗅《くせ》え鰹節《かつぶし》の一本か酢《すっ》ぺい酒の一杯《いっぺい》でも持って、旦那お芽出度《めでと》うござえやすと云って来たものを」
森「未《ま》だ本当の祝儀をしねえから何処《どこ》へも知らせねえのだ、大丈夫だ、心配《しんぺい》しなくもよろしい、祝いものは何処からも来やしねえ、表向《おもてむき》に婚礼をすりゃアお前《めえ》の所へも知らせらア」
亥「旦那に云ってくんねえ、これは詰らねえ物だがって上げてくんねえ」
森「旦那、亥太郎が来ました」
文「そうか、此方《こっち》へお通し申せ……お母《っか》さま、亥太郎が参りました」
母「そうかえ、まア/\此方《こちら》へ」
亥「御無沙汰致しまして、お変りもございませんで」
母「お前さんも達者で、つい此の間も噂をして居りました、さア此方《こっち》へ」
文「亥太郎さん、文治郎は大きに御無沙汰をした、少し取込んだことがあって」
亥「今、森に聞けばお嫁さんが来たって、知らねえものだから、知らせておくんなされば詰らねえ祝物《いわいもの》でも持って来なければならねえ身の上で、お祝いにも来ねえで、何《な》ぜ知らせて下さらねえ」
文「いや/\未だ内輪だけのことで」
母「只今文治の云う通り内輪だけのことで、改まって婚礼をするときは貴君方《あなたがた》にも知らせる積りでございます」
亥「だって私《わっち》は内輪でございやす、なアにこれは詰らねえものでございやす、お嫁さんにお目に懸りてい」
母「町や……年が行《ゆ》きませんから」
亥「へえ、こりゃアどうも/\そんなに長くお辞儀をなすっちゃアいけねえ、私《わっち》どもは二つずつお辞儀をしなければならねえ、こんな良《い》いお嫁さんはございませんねえ、お姫様のようだ、私《わっち》はぞんぜえ者でございやす、幾久しく願いやす」
文「御尊父様は御壮健でございますか」
亥「へえ何《なん》でごぜえやすか」
文「御尊父様は御壮健でございますか」
亥「私《わっち》の近所の医者でごぜえやすか」
文「いえ貴君《あなた》の親御《おやご》さまは」
亥「私《わっち》の親父《おやじ》ですか、些《ちっ》とも知らねえ……お芽出たい処へ来て、こんな事を云っては何《なん》ですが、親父は此の二月お芽出度《めでたく》なりました」
文「おや、さっぱり存ぜんで、お悔みにも参りません、何《な》ぜ知らせて下さらぬ」
亥「私《わっち》共のような半纒着《はんてんぎ》の処へお前《めえ》さんが黒い羽織で来ちゃア気が詰って困るからお知らせ申さねえ」
文「やれ/\御愁傷さま」
母「お前さまのような薩張《さっぱ》りした御気性だから口へはお出しなさらないが、腹の中《うち》では嘸《さぞ》御愁傷でございましょう」
亥「此方《こっち》の旦那のように親孝行をして死んだのでございません、餓鬼の中《うち》から喧嘩早《けんかっぱや》くって私《わっち》故に心配して、あんな病身になって死にました、達者な中《うち》
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