の方へいらっしゃいまし」
母「おや/\あれは悪党かえ」
森「申し、お母さんは知らないのだがね、彼奴は悪党で、私《わっち》が何か云うといやにせゝら笑やアがるから、小癪《こしゃく》にさわるから擲《なぐ》り付けようと思いましたがね、今こゝで彼奴を打《ぶ》つとウーンと云って顛倒《ひっくりけ》えって仕舞うから、私《わっち》も堪《こら》えていたのです。お母さん心配しないで此方《こっち》へおいでなさい」
と隠居所の方へ連れて往《ゆ》きまして、
森「もし旦那え彼奴《あいつ》を打擲《ぶんなぐ》ると顛倒《ひっくり》かえるから、そうすると金高《きんだか》が上《のぼ》りますよ」
文「宜しい/\」
と云って脇差《わきざし》を左の手へ提げて座敷へ入って参りまして、
文「初めてお目に懸ります、私《わし》は浪島文治郎と云う者です、只今母から聞きましたが、昨夜お前の御家内を打擲した処、今日其の御家内を連れて来て、此方《こっち》で看病をしてくれろとのお頼み、又母が連れ帰ってくだされば金子《きんす》は何程《なにほど》でも差上げると云うと、お前は親分や友達に済まんと云えば、いつまでもお話は押付《おっつ》かんが、打《ぶ》った処は文治郎が重々悪いから、飽くまで詫びたならばお前も男の事だから勘弁するだろうね、勘弁してくれたら互に懇意になり、懇意ずくなら金を貸してもお前の恥にも私《わし》の恥にもならないから、心が解けたら懇意になって懇意ずくでお内儀《かみ》さんの手当となしに金を五十両やるからそれで帰って下さいな」
國「へゝ、こりゃアどうも、もし旦那え、お前《めえ》さんのようにサックリと話をされちゃア何も云えない、と申すのは、貴方《あなた》のような立派な方が私《わっち》のようなものに謝まると仰しゃれば、宜しいと云わなければなりません、そうなれば懇意ずくで金を貸せば恥になるめえから五十両やると云う、実に何とも申そうようはござえません、実はお母さんのお耳へ入れまいと思ったが、つい貧乏に暮していますから苦しまぎれに申上げたのでございます、それではどうか五十両拝借したいものでございます」
文「五十両でいゝかえ」
國「宜しゅうございます/\」
と云うと文治は座を正して大声《たいせい》に、
文「黙れ悪人、其の方《ほう》は此の文治を欺き五十両強請ろうとして参ったか、其の方は市中お構《かまい》の身の上で肩書のある悪人でありながら、夫婦|連《づれ》にて此の近傍《かいわい》の堅気の商家《あきんど》へ立入り、強請騙りをして人を悩ます奴、何処《どこ》ぞで逢ったら懲《こら》してくれんと思っていた処、幸い昨夜其の方の女房に出会いしにより打殺そうと思ったが、お浪を助けて帰したは手前を此の家《うち》に引出さん為であるぞ、其の罠《わな》へ入って能くノメ/\と文治郎の宅へ来たな、さア五十両の金を騙り取ろうなどとは申そうようなき大悪人、兎《と》や角《かく》申さば立処《たちどころ》に拈《ひね》り潰して仕舞うぞ」
と打《う》って変った文治郎の権幕《けんまく》は、肝に響いて、流石《さすが》の國藏も恟《びっく》り致しましたが、
國「もし旦那え、それじゃア、からどうも弱い者いじめじゃアありませんか、私《わっち》の方で金をくれろと云ったわけじゃアありません、お前《めえ》さんの方で懇意ずくになって金を貸すと云うから借りようと云うのだが、又亭主に無沙汰《ぶさた》で人の女房を打《ぶ》って済みますかえ、其の上|私《わっち》を打殺すと云やア面白い、さアお打ちなせえ、私《わっち》も國藏だア、打殺すと云うならお殺しなせえ」
文「不届き至極な奴だ」
と云いながら、突然《いきなり》國藏の胸《むな》ぐらを取って、奥座敷の小間へ引摺り込みましたが、此の跡はどう相成りましょうか、明晩申し上げます。
二
男達《おとこだて》と云うものは寛永《かんえい》年間の頃から貞享《ていきょう》元禄《げんろく》あたりまではチラ/\ありました。それに町奴《まちやっこ》とか云いまして幡隨院長兵衞《ばんずいいんちょうべえ》、又は花川戸《はなかわど》の戸澤助六《とざわすけろく》、夢《ゆめ》の市郎兵衞《いちろべえ》、唐犬權兵衞《とうけんごんべえ》などと云う者がありまして、其の町内々々を持って居て、喧嘩《けんか》があれば直《すぐ》に出て裁判を致し、非常の時には出て人を助けるようなものがございましたが、安永年間には左様なものはございません。引続きお話申します業平文治は町奴親分と云うのではありません、浪人で田地《でんじ》も多く持って居りますから活計《くらし》に困りませんで、人を助けるのが極く好きです。尤《もっと》も仁を為せば富まず、富を為せば仁ならずと云って、慈悲も施し身代《しんだい》も善くするというは中々むずかしいことでありますが、文治は
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