れから猪《い》の熊《くま》の亥太郎と云われました。其の後《のち》小市さんの所へ酒を二升持って礼に参り「あなたのお蔭で脊中の刺青が熊になった」と云われた時は流石《さすが》の小市も驚いたと云う程強い男ですから、牢から出ると、喧嘩の相手の文治郎のどてっ腹を抉《えぐ》らなければならんと云うので胴金《どうがね》造りの脇差を差して直ぐに往《ゆ》こうと思ったが、そんな乱暴の男でも親の事が気に掛ると見えまして、家《うち》へ帰って見ると、親父はすや/\と能く寝て居りますから、
 亥「爺《ちゃん》能く寝ているな、勘忍してくんねえ、己《おら》ア復《ま》た牢へ往《ゆ》くかも知れねえ、業平橋の文治を殺して亥太郎の面《つら》を磨くから、己《おれ》が牢へ往って不自由だろうが勘忍して呉んねえ」
 と云われ長藏は目を覚し、
 長「手前《てめえ》は牢から出て来ても家《うち》に一日も落付いていず、やれ相談だの、やれ何《なん》だのと云ってひょこ/\出歩きやアがって、何《なん》だ権幕《けんまく》を変えて脇差なんどを提《さ》げて、また喧嘩に往《ゆ》くのだろうが、喧嘩に往くと今度は助かりゃアしねえぞ、喧嘩に往くのなら己《おら》ア見るのが辛《つれ》えから、手前《てめえ》今度出たら再び生きて帰《けえ》るな」
 亥「爺《ちゃん》、己《おら》ア了簡があって業平橋の文治郎のどてっ腹を抉って腹癒《はらい》せをして来るのだ」
 長「何だ、腹が痛《いて》えと」
 亥「そうじゃアねえ、業平橋の文治郎を打《たゝ》っ斬って仕舞うのだ」
 長「此の野郎とんでもねえ奴だ、業平橋の文治郎様の所へは己《おれ》がやらねえ、死んでもやらねえ、業平文治郎さまと云うのは見附|前《めえ》の喧嘩の相手だろう、其の方《かた》を斬りに往《ゆ》くんなら己を殺して往け」
 亥「なんだって文治郎を殺すのにお前《めえ》を殺して往くのだ」
 長「何もあるものか、手前《てめえ》は知るめえが、去年の暮の廿六日に手前《てめえ》が牢へ往って其の留守に、忘れもしねえ廿八日、業平橋の文治郎様が来て金を十両見舞に持って来てくれた、手前《てめえ》が牢へ往って己が煩っていて気の毒だ、勘忍してくれと云って十両の金をくれた、其の金があったればこそ己が今まで斯うやって露命を繋《つな》いで来た、其の大恩ある文治郎様に刃物を向けて済もうと思うか、さア往《ゆ》くなら己の首を斬って往け、殺して往け、恩を仇《あだ》で返《けえ》すのは済まねえから殺して往け、さア殺せ」
 亥「待ちねえ爺《ちゃん》、何か全く文治郎さんがお前《めえ》の所へ金を持って来てくれたに違《ちげ》えねえか、爺」
 長「暮になって何《ど》うも仕様のねえ所へ十両の金をくれて、それで己が今まで食っていたのだよ」
 亥「そうとは知らずにどてっ腹をえぐろうと思っていた」
 長「なに小塚原《こづかっぱら》へ往くと、己やらねえ」
 亥「そうじゃアねえ、己が知らねえからよ」
 長「なに不知火関《しらぬいぜき》を頼むと」
 亥「全く金を十両くれたかよ」
 長「そうよ」
 亥「あゝ後悔した」
 長「なにそんな事を云っても己《おれ》アやらねえ」
 亥「本所から度々名の知れねえ差入物が来ると云ったが、それじゃア文治郎が送ってくれたか、又己の留守に金を十両持って見舞《みめえ》に来てくれたとは己は済まねえ」
 長「何をぐず/\云っている、己出さねえ、やらねえ」
 亥「爺《ちゃん》、知らねえと云って済まねえなア」
 長「うん済まねえ」
 亥「知らねえからよ」
 長「牢から出たら手前《てめえ》を連れて詫に往《ゆ》こうと思っていた」
 亥「直ぐに詫に往くよ」
 長「嘘をつけ、そんなことを云ってまた喧嘩に往くんだろう、己やらねえ」
 亥「大丈夫だよ、案じねえように脇差をお前《めえ》に預けるから」
 長「何処《どこ》でこんな物を買って来《き》やがった、詫に往かなければ己を殺せ」
 亥「何か土産を持って往きてえが何がいゝだろう、本所は酒がよくねえから鎌倉河岸《かまくらがし》の豐島屋《としまや》で酒を半駄《かたうま》買って往こう」
 長「なんだ、年増と酒を飲みに往く、そんなことはしねえでもいゝ」
 亥「そうじゃアねえ、済まねえから詫に行《ゆ》くのだ、安心して寝ていねえ」
 長「己も往きてえが腰が立たねえからとそう云ってくれ」
 亥「それじゃア往って来るよ」
 と正直の男だから鎌倉|川岸《がし》の豐島屋へ往って銘酒を一|樽《たる》買って、力があるから人に持たせずに自分で担《かつ》いで本所業平橋の文治の宅へ参り、玄関口から、
 亥「御免なせえ/\」
 森「おゝ、こりゃアお出《いで》なせえ」
 亥「いやなんとか云ったっけ、森松さんか、誠に面目ねえ」
 森「己の所の旦那が阿兄《あにき》のことを彼《あ》ア云う気性だから大丈夫だと安心していたがね
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