どうするのだ」
文「何うもしない、手前のような強慾《ごうよく》非道な者を生かして置くと、生先《おいさき》長き両人の為にならん、手前一人を縊《くび》り殺して両人を助ける方が利方《りかた》だからナ、此の文治郎が縊り殺すから左様心得ろ」
さ「あ痛《いた》た/\恐れ入りました、上げますよ/\、上げますから堪忍して下さい、娘の貰引《もらいひき》に咽《のど》を締る奴がありますか、軍鶏《しゃも》じゃアあるまいし、上げますよ」
文「屹度《きっと》くれるか、これ/\森松、此の婆の云う事はグル/\変るから店受《たなうけ》か大屋を呼んで来い」
と云うから森松は急いで大屋を呼んで来ました。
大「道々御家来様から承りますれば、お村を助けて下すった其の御恩人の貴方様へ此の婆が何か分らんことを申すそうで、此奴《こいつ》は苛《ひど》い婆です、貴方様の御立腹は御尤《ごもっと》もの次第です」
と此の家主《いえぬし》が中へ入りまして五十両の金子を渡しまして、娘を確かに友之助に嫁に遣ったと云う証文を取り、懐中へ入れて文治はお村の宅を出まして、
文「森松|何《ど》うだ、苛《ひど》い婆だなア」
森「苛い奴です、咽を締めたから死ぬかと思って婆が驚きやアがった」
文「なアにあれは威《おど》したのサ、あゝ云う奴は懲《こら》さなければいかん、併《しか》し大分《だいぶ》空腹になった」
森「くうふく[#「くうふく」に傍点]てえなア何《な》んで」
文「腹が減ったから飯を喰おうと云う事よ、何処《どこ》か近い処にないか」
森「馬喰町《ばくろちょう》三丁目の田川《たがわ》へ往《い》きましょう」
と二人連れで馬喰町四丁目へ掛ると、其の頃|吉川《よしかわ》と申す居酒屋がありました。其の前へ来ると黒山のように人立《ひとだち》がしているのは、彼《か》の左官の亥太郎ですが、此の亥太郎は変った男で冬は柿色の※[#「※」は「「褞」で、「ころもへん」のかわりに「いとへん」をあてる」、97−3]袍《どてら》を着、夏は柿素《かきそ》の単物《ひとえもの》を着ていると云う妙な姿《なり》で、何処で飲んでも「おい左官の亥太郎だよ、銭は今度持って来るよ」と云うと、棟梁《とうりょう》さん宜しゅうございますと云って何処でも一文なしで酒を飲ませる。其の代りには堅いから十四日晦日に作料を取れば直ぐにチャンと払いまして、今度又借りて飲むよと云うから、何時《いつ》でも棟梁さん宜しいと云われ、随分売れた人でした。それが吉川では番頭が代って亥太郎の顔を知らなかったのが間違いの出来る原《もと》で、
亥「番頭さん相変らず銭がないから今度払いを取った時だぜ」
番「誠に困りやす、代を戴かなくちゃア困りますなア」
亥「困るって左官の亥太郎だからいゝじゃアねえか」
番「亥太郎さんと仰《おっし》ゃるか知れませんが銭がなくっては困ります」
亥「左官の亥太郎だよ」
番「誰様《どなたさま》かは存じませんが、飲んで仕舞ってから払いをしなければ食逃げだ」
亥「ナニ食逃げとは何をぬかす」
と云いながら職人で癇癖《かんぺき》に障ったから握り拳《こぶし》を以《もっ》て番頭を撲《なぐ》りましたが、右の腕に十人力、左の手に十二人力あります、何《ど》うして左の手に余計力があるかと云うに、これは左官のせいで、左官と云う者は刺取棒《さいとりぼう》で土を出すのを左の手の小手板で受けるのは何貫目《なんがんめ》あるか知れません、それゆえに亥太郎の左手が力が多いので、その大力無双《だいりきぶそう》の腕で撲られたから息の根が止るばかりです。
亥「これ、能く己《おれ》の顔を見て覚えて置け、豊島町の亥太郎だぞ」
と云う騒ぎに亭主が奥から駈出して来て、
主人「申し棟梁さん、腹を立たないでおくんなさい、これは一昨日《おとゝい》来た番頭でお前さんの顔を知らないのですから」
亥「己は弱い者いじめは嫌《きれ》えだが食逃げとはなんでえ」
主「棟梁さん勘忍しておくんなさい」
と頻《しき》りに詫をしている。只今なれば直《じ》きに棒を持って来てこれ/\と人を払って、詰らぬものを見ていて時間を費《ついや》すより早く往ったが好かろうと保護して下さるが、其の頃は巡査がありませんから追々人立がして往来が止るようになりました。文治は斯う云う事を見ると捨てゝ置かれん気性でございますから心配して、
文「大分《だいぶ》人立がしているが何《なん》だえ」
森「生酔《なまよい》が銭がねえと云うのを、番頭が困るって云ったら番頭を撲りやアがって」
文「可愛そうに、商売の障りになるから其の者が銭がなければ払ってやって早く表へ引出してやれ」
森「え、御免ねえ/\、おい兄い々々|爰《こゝ》でそんな事を云っちゃア商売の障りにならア表へ人が黒山のように立つから此方《こっち》へ来ね
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