を」
孝「え、なんでも宜しゅうございます、此方《こちら》の事です、殿様|私《わたくし》は三月二十一日に御当家へ御奉公に参りまして、新参者の私を、人が羨《うらや》ましがる程お目を掛けてくださり、御恩義の程は死んでも忘れはいたしません、死ねば幽霊になって殿様のお身体に附きまとい、凶事のない様に守りまするが、全体貴方は御酒を召上れば前後も知らずお寝《やす》みになる、又召上がらねば少しもお寝みになる事が出来ません、御酒も随分気を散じますから少々は召上がっても宜しゅうございますが、多分に召上ってお酔いなすっては、仮令《たとい》どんなに御剣術が御名人でも、悪者がどんなことを致しますかも知れません、私はそれが案じられてなりません」
飯「さような事は云わんでも宜しい、あちらへ参れ」
孝「へえ」
 と立上がり、廊下を二足《ふたあし》三足《みあし》行《ゆ》きにかゝりましたが、是《こ》れがもう主人の顔の見納めかと思えば、足も先に進まず、又振返って主人の顔を見てポロリと涙を流し、悄々《しお/\》として行《ゆ》きますから、振返るを見て飯島もハテナと思い、暫《しば》し腕|拱《こまぬ》き、小首かたげて考えて居りまし
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