ている間《うち》、新三郎も此のお嬢は真《しん》に美しいものと思い詰めながら、ずっと手を出し手拭を取ろうとすると、まだもじ/\していて放さないから、新三郎も手拭の上からこわ/″\ながらその手をじっと握りましたが、此の手を握るのは誠に愛情の深いものでございます。お嬢様は手を握られ真赤《まっか》に成って、又その手を握り返している。此方《こちら》は山本志丈が新三郎が便所へ行《ゆ》き、余り手間取るを訝《いぶか》り
志「新三郎君は何処《どこ》へ行《ゆ》かれました、さア帰りましょう」
と急《せ》き立てればお米は瞞《ごま》かし、
米「貴方《あなた》何《な》んですねえ、おや貴方《あなた》のお頭《つむり》がぴか/\光ってまいりましたよ」
志「なにさそれは灯火《あかり》で見るから光るのですわね、萩原氏々々」
と呼立てれば、
米「何《な》んですねえ、宜《よ》うございますよう、貴方《あなた》はお嬢様のお気質も御存じではありませんか、お堅いから仔細《しさい》はありませんよ」
と云って居ります所へ新三郎が漸《よう》よう出て来ましたから、
志「君|何方《どちら》にいました、いざ帰りましょう、左様なればお暇《いとま》申します、今日は種々《いろ/\》御馳走に相成りました、有難うございます」
米「左様なら、今日はまア誠にお草々《そう/\》さま左様なら」
と志丈新三郎の両人は打連《うちつ》れ立《だ》ちて帰りましたが、帰る時にお嬢様が新三郎に
「貴方《あなた》また来て下さらなければ私《わたくし》は死んでしまいますよ」
と無量の情を含んで言われた言葉が、新三郎の耳に残り、暫《しば》しも忘れる暇《ひま》はありませなんだ。
三
さても飯島様のお邸《やしき》の方《かた》にては、お妾お國が腹一杯の我儘《わがまゝ》を働く間《うち》、今度|抱《かゝ》え入れた草履取《ぞうりとり》の孝助《こうすけ》は、年頃二十一二にて色白の綺麗な男ぶりで、今日しも三月二十二日殿様平左衞門様にはお非番でいらっしゃれば、庭先へ出《い》て[#「出《い》て」はママ]、彼方此方《あちらこちら》を眺めおられる時、此の新参の孝助を見掛け。
平「これ/\手前は孝助と申すか」
孝「へい殿様には御機嫌|宜《よろ》しゅう、私《わたくし》は孝助と申しまする新参者でございます」
平「其の方は新参者でも蔭日向《かげひなた》なくよく働くといって大分《だいぶ》評判がよく、皆の受《うけ》がよいぞ、年頃は二十一二と見えるが、人品《ひとがら》といい男ぶりといい草履取には惜しいものだな」
孝「殿様には此の間中《あいだじゅう》御不快でございましたそうで、お案じ申上げましたが、さしたる事もございませんか」
平「おゝよく尋ねて呉れた、別にさしたる事もないが、して手前は今まで何方《いずかた》へか奉公をした事があったか」
孝「へい只今まで方々奉公も致しました、先《ま》ず一番先に四谷《よツや》の金物商《かなものや》へ参りましたが一年程居りまして駈出《かけだ》しました、それから新橋《しんばし》の鍜冶屋《かじや》へ参り、三|月《つき》程過ぎて駈出し、又|仲通《なかどお》りの絵草紙屋《えぞうしや》へ参りましたが、十|日《か》で駈出しました」
平「其の方のようにそう厭《あ》きては奉公は出来ないぞ」
孝「いえ私《わたくし》が倦《あ》きっぽいのではございませんが、私はどうぞして武家奉公が致したいと思い、其の訳を叔父に頼みましても、叔父は武家奉公は面倒だから町家《ちょうか》へ往《ゆ》けと申しまして彼方此方《あちらこちら》奉公にやりますから、私も面当《つらあて》に駈出してやりました」
平「其の方は窮屈な武家奉公をしたいというのは如何《いかゞ》な訳じゃ」
孝「へい、私《わたくし》は武家奉公を致しお剣術を覚えたいのでへい」
平「はて剣術が好きとな」
孝「へい番町《ばんちょう》の栗橋《くりはし》様が御当家様《こちらさま》は、真影流《しんかげりゅう》の御名人《ごめいじん》と承わりました故、何《ど》うぞして御両家の内へ御奉公に上《あが》りたいと思いましていました処《ところ》、漸々《よう/\》の思いで御当家様《こちらさま》へお召抱《めしかゝ》えに相成り、念が届いて有難うございます、どうぞお殿様のお暇《ひま》の節には、少々ずつにてもお稽古が願われようかと存じまして参りました、御当家様《こちらさま》に若様でも入《いら》っしゃいます事ならば、若様のお守《もり》をしながら皆様がお稽古を遊ばすのをお側で拝見致していましても、型ぐらいは覚えられましょうと存じましたに、若様はいらっしゃらず、お嬢様には柳島の御別荘にいらっしゃいまして、お年はお十七とのこと、これが若様なれば余程《よっぽど》宜《よろ》しゅうございますに、お武家様にお嬢様は糞《くそ》ったれでございます
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