なら斬ってしまいますが、あの若い方はどうも病身のようだから斬れまいねえ」
「ナニあれは剣術を知らないのだろう、侍が剣術を知らなければ腰抜けだ」
などとさゝやく言葉がちら/\若い侍の耳に入るから、グッと込み上げ、癇癖《かんぺき》に障《さわ》り、満面《まんめん》朱《しゅ》を注いだる如くになり、額に青筋を顕《あら》わし、きっと詰め寄り、
侍「是程までにお詫びを申しても御勘弁なさりませぬか」
酔「くどい、見れば立派なお侍、御直参《ごじきさん》か何《いず》れの御藩中《ごはんちゅう》かは知らないが尾羽《おは》打枯《うちか》らした浪人と侮《あなど》り失礼至極、愈々《いよ/\》勘弁がならなければどうする」
と云いさま、ガアッと痰《たん》を彼《か》の若侍の顔に唾《は》き付けました故、流石《さすが》に勘弁強い若侍も、今は早《は》や怒気《どき》一度に面《かお》に顕《あら》われ、
侍「汝《おのれ》下手《したで》に出れば附上《つけあが》り、ます/\募《つの》る罵詈暴行《ばりぼうこう》、武士たるものゝ面上《めんじょう》に痰を唾き付けるとは不届《ふとゞき》な奴、勘弁が出来なければ斯《こ》うする」
といいながら今刀屋で見ていた備前物の刀柄《つか》に手が掛るが早いか、スラリと引抜《ひきぬ》き、酔漢《よっぱらい》の鼻の先へぴかりと出したから、見物は驚き慌《あわ》て、弱そうな男だからまだ引抜《ひっこぬき》はしまいと思ったに、ぴか/\といったから、ほら抜いたと木《こ》の葉の風に遇《あ》ったように四方八方にばら/\と散乱し、町々の木戸を閉じ、路地を締め切り、商人《あきんど》は皆戸を締める騒ぎにて町中《まちなか》はひっそりとなりましたが、藤新の亭主一人は逃場《にげば》を失い、つくねんとして店頭《みせさき》に坐って居りました。さて黒川孝藏は酔払《よっぱら》っては居りますれども、生酔《なまえい》本性《ほんしょう》違《たが》わずにて、彼《か》の若侍の剣幕《けんまく》に恐れをなし、よろめきながら二十歩ばかり逃げ出すを、侍はおのれ卑怯《ひきょう》なり、口程でもない奴、武士が相手に背後《うしろ》を見せるとは天下の耻辱になる奴、還《かえ》せ/\と、雪駄穿《せったばき》にて跡を追い掛ければ、孝藏は最早かなわじと思いまして、踉《よろめ》く足を踏みしめて、一|刀《とう》のやれ柄《づか》に手を掛けて此方《こなた》を振り向く処
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