て来たか険しい顔して座るなり、
「今度はたゞでは延ばすまいから君の持つてるものを質入れして幾らかでも入れることにするから、君の持つてるものを出せ」と云ひ出した。
「そんな馬鹿なこと出来やしないよ。後幾日のことでもなし、そんな訳なら東京へ手紙を出して金を拵へることにする……そんなこと出来るもんか」と、私もムツとして云つた。
「そんなら俺の方でも引受けられないよ。何が馬鹿なことなんだ。金が無くて払へなければ、さうするのが当然ぢやないか」
「そりやさうかも知れないが、しかし二三日中にも片附けられるんだから、そんなことまでせんだつていゝ」
「だつて宿で待たないと云つてるから仕方がないぢやないか」
「だからそこを君からもう一度話して呉れたらいゝぢやないか」
「俺としてもたゞでは話が出来ないぢやないか。幾らか内金でも入れて、それで後二三日待つて呉れとでも云はなければ、宿でだつて聞き入れやしないよ。だから出せ……」
「厭だよ……」
「わからないなあ君も。兎に角宿では君のやうなお客さんはご免だと云つてるんだから、金を入れると云つたつて今度は何と云ふか知れやしないんだぜ。だから兎に角品物を出せ」
「仕様が無いなあ。ぢや兎に角さう云ふことにして呉れ」と云つて、私は外套と羽織と時計の三品を出した。
「外套は暮に百円で拵へたばかしなんだぜ」
「だつて質屋へ持込むとなると幾らも貸しやしないよ。この銘仙の羽織なんか幾らになるもんか。時計は幾ら位ゐしたものなんだ?」
「買ふとなると二十五円もするが」と私はすつかり愛想の尽きた投げ出した調子になつて云つた。
彼がその包みを持つて帳場へ下りて行つた後私は一人で煙草を自棄に吸ひながら、先刻の幸福な気分のすぐ後だつたゞけに、自分に対して皮肉な気持を感じない訳に行かなかつた。が何しろ相手は細かしい商人なんだからと思ひ返した。お内儀が気にした人相のことなど考へられた。突出た狭い額、出歯の醜い歯並、尖つた頤、冴えない顔色、一重瞼の吊りあがつた因業さうな眼付――が兎に角自分が頼りにして来たのがいけなかつたのだ。帳場へ行つてどんな風に話をしてゐるのかと疑はれる気もしたが、やつぱし帰つて来ると、
「帳場では幾らか内金を入れても君のやうなお客はご免だと云ふから、兎に角君はこれから東京へ帰つて金を拵へて来るか、金を送るかどつちかにしたらいゝだらう」と卒気なく云ひ放つた。
「そんなこと出来やしないよ。こんなことで東京へ帰られやしないぢやないか。だから斯んなことにして呉れないか。どうしてもこゝで厭だと云ふんだつたら、僕は他の旅館へ行つて二三日滞在して金を拵へることにするから、その間の費用として十五円ばかし心配して呉れないか。外套を質に置くか、それでなかつたら町の方の安い宿屋へ二三日のところ話して呉れないか」と私は懇願的に出た。
「真平ご免だ」と、彼は勝誇つた調子で云つた。
「ご免だと云つて、それならば僕の方でも金は拵へて払ふから品物を渡すのはご免だよ」
「それならば俺の方でもこゝの保証はご免蒙るよ」
「それは勝手だ。僕の方では警察にでも立合つて貰ふから。その方がまだ気持がいゝよ」
お内儀も這入つて来て二人の問答の間に口を入れたりしたが、やつぱし内田の方から断らせるやうに宿へ話し込んだものに違ひないことが明瞭になつて来た。彼としてはこゝで突放すのが一番有利だと思へるのも尤もでもある。それで話が難かしさうになると、彼はさつさと室を出て行つた。無理解と云ふ以外に私のやうな職業に対する反感も手伝つてゐるやうに見えた。
「私の方では内田さんと話がついたのですから、兎に角出て頂きます」お内儀は斯う云つて内田が残して行つたと云ふ羽織だけ持つて来た。
「内田さんだから羽織だけでも置いて行つたんで、警察の立合となると何一つだつて残しやしませんよ」
「しかしその方がまだ気持がよかつた。それであの品物は内田君が持つて行つたんですね?」
「え持つて行きましたよ」
「さうですか。それでは兎に角内田の兄さんとこへでも行つて話して見よう。何しろ馬鹿々々しい話だ」
「さうですねえ、兄さんにはまた兄さんだけの考へもありませうから」と、お内儀も幾らか同情したやうな調子で云つた。
三
兄さんの家は停車場近くであつた。その辺は鉱山と同時に新らしく開けた、長家風の粗末な建物がごちや/\軒を並べたやうな町であつた。店さきに座つてゐた四十一二の兄さんは「まあおあがり……」斯う云つて私を奥へ案内しかけたが、先刻と同じやうに険悪な顔した内田が奥から出て来て、私を外へ引張り出した。
「何しに来たんだ?」
「兄さんへでも相談して見ようと思つて来たさ」
「兄さんなんか相手にするもんか。それよりも東京へ帰つたらいゝだらう」
「帰られはしないよ。それに汽車賃だつてありやしないさ」
「汽車賃位ゐなら貸してやらう」
「ご免だ」
「そんなら勝手にするさ。しかしこれ以上はどんなこと云つて来たつて俺の方では相手にしないからね、そのつもりでゐ給へ。営業妨害だよ。君なんかの相手になつてゐられるもんか」彼は斯う云ひ棄てゝ歩るいて行つた。
何と云ふ可笑しな男だらう、しかし自分なんかの生活では有勝ちのことなんだが、あの男にとつては非常に真剣な一大事なのかも知れないと思ふと、彼の後姿を見送つて、私には苦笑以上に憤慨の気も起らなかつた。そして店さきに引返して土間の腰掛に腰をかけながら、兄さんに今度の事情を話した。
「そんな訳なもんですから、これから手紙を出して金を取寄せる間、二三日のところどうかしたいと思ふんですけど、それで内田君が持つて来た品物を質入れした内から十五円ばかり借りたいと思ふんですけど、何しろ内田君はひどく激昂してゐるんで、それであなたから何とか内田君に話して貰ひたいと思ふんですが……」内田も多分品物は宿屋に渡してあることゝ思はれたが、此際斯う云ひ出すほかなかつた。
「あれは何しろあの通りいつこくな奴でして、商売上のことでは私の方でも干渉もするし、また干渉もせずにゐられませんが、その他のことでは、一切干渉しないことにしてゐるんで、こつちで親切で云ふことでもすぐ反抗して来ると云つたやうな訳ですから、私が行つて見ても何と云ふか知れませんがね、それでは私は今すぐ後から出かけますから、あなたひと足さきに行つてゝ呉れませんか。一寸しかけた用事を片附けてすぐ後から参ゐりますから……」
斯う云はれて私はまたひとりで内田の店まで十町近くのところを歩るいて行つた。店さきには鉱山の印半纏の上に筒袖の外套を着て靴を穿いた坑夫の小頭とでも云つた男が立ちながら、襦袢の袖を出さして見てゐた。縮緬と絹との一対づゝであつた。
「幾らに負かるんかね?」
「お値段のところはどうも。まつたくお取次ぎ値段でして、昨年の高い時分には十二三円からした品物なんですから、七円と云ふのはまつたくもうお取次ぎの値段を申しあげたんで、他所を聞いてご覧になつて高いやうなことがありましたらいつでもお返しになつて差支えありませんから、まつたくどうもお値段のところは……さうですね、それではほんのお愛嬌に十銭だけお引きしませう」
「十銭と云ふと、やつぱし七円だな」
「へえ、まつたくどうもお値段のところは……随分お安く申しあげてあるんで」
斯んな調子で、彼は算盤を弾いて見たりして三十分程も相手をして骨を折つたが、結局「それではまた後で……」と云ふことで男は出て行つた。傍で見てゐた私も気の毒な気がした。この二対しかない絹物の袖の売れる機会は、斯うした店では稀なことに違ひなかつた。私が来合せた為め売れなかつたのだと、この男のことだから思ひ兼ねないものでもないと云ふ気もされた。彼は不機嫌さうに起つて後ろの棚へ品物を蔵つて、
「何しに来た?」と、一層険しい顔して云つた。
「すぐ後から兄さんも来る筈だから」
「兄さんが来たつて誰が来たつて、俺の方では一切この交渉はご免を蒙る。営業妨害だよ。この忙がしい身体を君のことなんかに構つてゐられないよ。兎に角早速東京へ帰るなり別の宿屋へ行くなりそれは勝手だが、すぐ金を拵へて来て貰はないと俺が迷惑する。君のやうな非常識な人間相手は真平ご免だ」剣もほろろの態度で、斯う云つてぷいと奥へ引込んで了つた。
私は店さきに座つてもゐられないし、また最早彼と交渉する気力も興味の余地も無い気がして、また兄さんの方へ引返して来た。内田とは十五年程前、私が大学病院で痔の手術を受けた時、彼は陰嚢水腫の手術を受けに出て来て、その時からの知合であつた。二月上旬の霙の降つた寒い日であつた。一番目が兵隊あがりのやはり痔の患者、二番目が彼で、やがてまだ死人のやうに睡つてゐる彼が手押車で廊下から患者の控室に運び込まれたが、時々不気味な呻り声を出して出歯の口を開けた蒼醒めた顔は、かなり醜い印象を私に与へたものであつた。その時附添つて来たのが兄さんであつた。それから六十日程の間私達は隔日に顔を合はして、お互ひに訪問し合つたりするほど懇意になつた。そして病院の裏の桜の咲き初めた時分、ほんの二三日の違ひで病院から解放されることになり、若かつた私達は互ひに懐しい気持で別れることになつた。それから不思議にも二三年置き位ゐに私達は会つてゐた。私が帰郷の途中彼のところへ寄つたり、彼が上京の度に下宿に訪ねて来たりした。四五年前であつた。彼は慢性の花柳病治療の為め上京して、私が案内して神田の方の某専門大家を訪ねて診察を受けたところ、彼の予算とは何層倍の費用がかゝりさうなのに嚇かされて、彼は治療を断念した。そして、彼が持つて来た金で二人で神楽坂の待合で遊んだ。その割前を厳しく彼から請求されたが、私はその時分家を持つてゐたのだつたけれどひどい困窮の場合で、その工面がつかなかつた。その結果二人はやはり今度のやうな罵り合ひの状態で物別れになり、私の方では絶交のつもりであつた。ところが昨年の夏、団体で横須賀へ軍艦の進水式を見に来た序でだと云つて、十四五人の同勢と突然に訪ねて来た。ビールなぞ飲んで一時間ばかり休んで行つた。それから二度東京へ出た序でだと云つて訪ねて来て、半日位ゐ遊んで行つた。
「それではやつぱし、鎌倉へ来たのもたゞ遊びに来たのではなく、割前の貸しを請求するつもりで来たのだが、さすがに云ひ出せなくて帰つたのかも知れないな」と、私は思ひ当る気がした。
私はまた兄さんと店さきで話した。
「何しろ非常に激昂してゐて駄目なんですがね。あなたに行つていたゞいても駄目だらうと思ひますよ。それで、先刻も話したやうな訳で今度はどうしても書かずには帰れないやうな事情になつて居るので、東京の本屋に版権でも売つて金を取寄せることにしますから、二三日滞在するだけの金を――十五円ばかし貸していたゞけないでせうか。値ひは無いんですけど羽織と袴をお預けすることにしますから……」私は内田の方は諦めて、今度は兄さんに頼んで見た。
「それでは兎に角どう云ふ事情になつて居るのかあれにも訊いて見ませう。何しろ見かけのやうでなく商人なんてものは内が苦しいもんですから……」兄さんは斯う熱のない調子で云つて出て行つた。
二時間ばかしも寒い店さきに腰をかけて待つてゐた。旧暦の年始客が手拭買ひに寄つたり、近所の内儀さんが子供の木綿縞を半反買ひに来たりして、十六七の小僧が相手になつてゐた。
「遅くなりまして。途中で年始客の酔払ひにつかまつたものですから、……どうも失礼しました」兄さんは幾らか赤い顔して帰つて来たが、
「いや、あれも別段激昂してると云ふ訳でもないやうですが、さうした方が、あなたの為めにもいゝと云ふんでして。……やはり一応お帰りになつて金策なさつた方がいゝでせう」
「さうでしたか。どうもご苦労さまでした」と、私も予期してゐたことながら当惑して、
「どうも仕方がありませんね。それで、帰るとしてももう時間が遅いし、どこか他の宿屋へ行つて事情を話して返事の来る間置いて貰ひたいと思ふんですが、それで誠に申し兼ねますが袴をお預けしますから五円だけ貸していたゞけますまいか」と、今度は五円と云ひ
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