……随分お安く申しあげてあるんで」
斯んな調子で、彼は算盤を弾いて見たりして三十分程も相手をして骨を折つたが、結局「それではまた後で……」と云ふことで男は出て行つた。傍で見てゐた私も気の毒な気がした。この二対しかない絹物の袖の売れる機会は、斯うした店では稀なことに違ひなかつた。私が来合せた為め売れなかつたのだと、この男のことだから思ひ兼ねないものでもないと云ふ気もされた。彼は不機嫌さうに起つて後ろの棚へ品物を蔵つて、
「何しに来た?」と、一層険しい顔して云つた。
「すぐ後から兄さんも来る筈だから」
「兄さんが来たつて誰が来たつて、俺の方では一切この交渉はご免を蒙る。営業妨害だよ。この忙がしい身体を君のことなんかに構つてゐられないよ。兎に角早速東京へ帰るなり別の宿屋へ行くなりそれは勝手だが、すぐ金を拵へて来て貰はないと俺が迷惑する。君のやうな非常識な人間相手は真平ご免だ」剣もほろろの態度で、斯う云つてぷいと奥へ引込んで了つた。
私は店さきに座つてもゐられないし、また最早彼と交渉する気力も興味の余地も無い気がして、また兄さんの方へ引返して来た。内田とは十五年程前、私が大学病院で痔の手術
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