たが、やはり五六枚書くと後が続かなかつた。午後の三時頃まで待つたが返事がないので、またお内儀がやつて来た。
「もう一晩だけ! 屹度返事が来る筈になつてるんですから……」
私は袷も脱ぎ、綿入一枚へ宿の褞袍を着て、質入れを頼むと十円借りて来た。それで今明晩の宿料を払つた。そしてまた電報を打つた。晩酌の時の辻占は、花の方に誠があればいつか鳥だつて来て啼くだらうと云つた意味のやはり心細いものであつた。
三日目は朝から曇つた寒い日であつた。いよ/\明朝こそは否応なしに出なければならないのだ。午後の三時頃まで待つたがやはり何の信りもなかつた。今日のうちに警察の保護を願つて電話をかけて貰はうかとも思つたが、その前にもう一度内田に頼んで見ようと思つて、これが最後の財産の万年筆を懐ろにして出かけて行つた。警察署は宿から五六軒離れてゐた。そこの、これも鉱山の寄附だと云ふ銅で出来た門や柵を眺めながら、内田との結果で今にもそこをくぐらねばならぬことを考へて、綿入れ一枚の自分の姿がさすがに惨めに顧られた。
「まだ居たのか?……たうとう君は兄さんに借りたさうだね。どこまで押しが太いんだか、おつ魂消た話だよ」と彼は例の調子で、店さきで私の風体をじろ/\視ながら、冷笑を浮べて云つた。
「なあに大したことぢやないさ。普通のことだよ」と、私も相手を冷笑の気持で云つた。
「君等には普通のことか知れないが、吾々の眼から見てはまるで無茶だね。そんな非常識な人間の相手は出来ないよ。なぜ東京へ帰らないんだ。愚図々々してゐてはもつとひどいことになるんだと云ふことがわからないのかねえ……」
「わからないね。それに斯んな態で東京へも帰られはしないよ」
「今どこに居るんだ?」
「M屋に居る。……それで」と云つて、私は今電報を待つてる事情を述べ、万年筆を提供するから五円貨して呉れと云つた。
「今夜にも屹度来るんだよ。金の来る来ないが別としても、返事だけは屹度来る筈なんだからな。何しろ手紙を出してる間が無かつたんで、電報でばかし居所を云つてやつてあるんで、そんなことで行違ひが出来てるのかも知れないが、しかし屹度今夜にも来ると思ふから……」
「M屋の勘定が幾ら位ゐになつてゐるんだ?」
「十円ばかし……」
「それではその十円と汽車賃だけあると東京へ帰れるんだね?」
「まあまあさうだな」
「それでは万年筆をよこせ。あとはM屋の方は俺が引受けるから、すぐ東京へ帰るんだ。S閣の方を早く片附けて貰はないと俺が迷惑するからな」
「そりや帰るには帰るけれど、今まで待つたんだからな、明日まで待つて見る。宿料も明日までは払つてあるんだから」
「いや今日すぐこれから発つんでなくつちやご免だよ」
「ぢや仕方が無い、発つてもいゝ」
「それでは今すぐ後から行くから君はさきに帰つてゐ給へ」
斯う云はれて私は宿に帰つてゐると、彼は間もなくやつて来たが、また二言三言云ひ合つてるうちに、私でさへ来るか来ないか疑つてゐる為替の受取の委任状を書けとか、何日までにS閣の払ひの金を送らないと品物を勝手に処分してもいゝと云ふ証書を書けとか、面倒臭いことを云ひ出したので、癪に障る気もなくつい「そんな厭なことばかし云ふんだつたら、いゝから帰つて呉れ。万年筆を置いて帰つて呉れ」と云ひ出した。
「なあんだ、人の忙しいところを引張り出して来やがつて。帰るとも。しかし後でどんなことになつたつて俺はもう知らんぞ」
「あゝいゝとも。帰つて呉れ」と、私も今度は幾らか痛快だつた気がして、云ひ放つた。
夕方から霙混りの雨になつた。晩酌の時の辻占は「逢ふての帰りか逢はずの行きか、寒い月夜のかとう節」と云つたものであつた。考へて見たが今度は判断がつかなくなつた。いよ/\明日は警察の厄介になるか、万年筆眼鏡兵古帯古帽子など屑屋に売払つて木賃宿へ行き改めて手紙を出すか、その二つの手段ほかないと思つた。それにしても弟から何の信りもないと云ふことが不審であつた。内田も居ることだし、いかに何でもまさか斯んな目に会つてることゝは思ふまいから、それで放つてあるのか、それとも勤め先きの用事で留守にでもして細君が途方に暮れてゐるのか、さうでもなければ何とか信りがある筈なのだが、やはりもつと底まで落込めとの神の戒めかとも思はれた。警官との応待、留置場で慄えてゐる姿、木賃宿で煎餅蒲団にくるまつてゐる光景など想像された。それも、そんな世界も死んだ従兄も一度は通つたのだと思ふと、満更親しみのない場所ではない気がされて、従兄のことが新らしく思ひ出されたりした。それにしても生憎の雨のことが気になり出した。雪にでもなつてゐたら敵はないと思ひながら寝床に就いたが、翌朝起きて見ると空はカラリと霽れあがつて、日が暖かく窓に射してゐたので、私は兎に角今日の天候に感謝した。そして遅い朝飯
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