……随分お安く申しあげてあるんで」
 斯んな調子で、彼は算盤を弾いて見たりして三十分程も相手をして骨を折つたが、結局「それではまた後で……」と云ふことで男は出て行つた。傍で見てゐた私も気の毒な気がした。この二対しかない絹物の袖の売れる機会は、斯うした店では稀なことに違ひなかつた。私が来合せた為め売れなかつたのだと、この男のことだから思ひ兼ねないものでもないと云ふ気もされた。彼は不機嫌さうに起つて後ろの棚へ品物を蔵つて、
「何しに来た?」と、一層険しい顔して云つた。
「すぐ後から兄さんも来る筈だから」
「兄さんが来たつて誰が来たつて、俺の方では一切この交渉はご免を蒙る。営業妨害だよ。この忙がしい身体を君のことなんかに構つてゐられないよ。兎に角早速東京へ帰るなり別の宿屋へ行くなりそれは勝手だが、すぐ金を拵へて来て貰はないと俺が迷惑する。君のやうな非常識な人間相手は真平ご免だ」剣もほろろの態度で、斯う云つてぷいと奥へ引込んで了つた。
 私は店さきに座つてもゐられないし、また最早彼と交渉する気力も興味の余地も無い気がして、また兄さんの方へ引返して来た。内田とは十五年程前、私が大学病院で痔の手術を受けた時、彼は陰嚢水腫の手術を受けに出て来て、その時からの知合であつた。二月上旬の霙の降つた寒い日であつた。一番目が兵隊あがりのやはり痔の患者、二番目が彼で、やがてまだ死人のやうに睡つてゐる彼が手押車で廊下から患者の控室に運び込まれたが、時々不気味な呻り声を出して出歯の口を開けた蒼醒めた顔は、かなり醜い印象を私に与へたものであつた。その時附添つて来たのが兄さんであつた。それから六十日程の間私達は隔日に顔を合はして、お互ひに訪問し合つたりするほど懇意になつた。そして病院の裏の桜の咲き初めた時分、ほんの二三日の違ひで病院から解放されることになり、若かつた私達は互ひに懐しい気持で別れることになつた。それから不思議にも二三年置き位ゐに私達は会つてゐた。私が帰郷の途中彼のところへ寄つたり、彼が上京の度に下宿に訪ねて来たりした。四五年前であつた。彼は慢性の花柳病治療の為め上京して、私が案内して神田の方の某専門大家を訪ねて診察を受けたところ、彼の予算とは何層倍の費用がかゝりさうなのに嚇かされて、彼は治療を断念した。そして、彼が持つて来た金で二人で神楽坂の待合で遊んだ。その割前を厳しく彼から請求されたが、私はその時分家を持つてゐたのだつたけれどひどい困窮の場合で、その工面がつかなかつた。その結果二人はやはり今度のやうな罵り合ひの状態で物別れになり、私の方では絶交のつもりであつた。ところが昨年の夏、団体で横須賀へ軍艦の進水式を見に来た序でだと云つて、十四五人の同勢と突然に訪ねて来た。ビールなぞ飲んで一時間ばかり休んで行つた。それから二度東京へ出た序でだと云つて訪ねて来て、半日位ゐ遊んで行つた。
「それではやつぱし、鎌倉へ来たのもたゞ遊びに来たのではなく、割前の貸しを請求するつもりで来たのだが、さすがに云ひ出せなくて帰つたのかも知れないな」と、私は思ひ当る気がした。
 私はまた兄さんと店さきで話した。
「何しろ非常に激昂してゐて駄目なんですがね。あなたに行つていたゞいても駄目だらうと思ひますよ。それで、先刻も話したやうな訳で今度はどうしても書かずには帰れないやうな事情になつて居るので、東京の本屋に版権でも売つて金を取寄せることにしますから、二三日滞在するだけの金を――十五円ばかし貸していたゞけないでせうか。値ひは無いんですけど羽織と袴をお預けすることにしますから……」私は内田の方は諦めて、今度は兄さんに頼んで見た。
「それでは兎に角どう云ふ事情になつて居るのかあれにも訊いて見ませう。何しろ見かけのやうでなく商人なんてものは内が苦しいもんですから……」兄さんは斯う熱のない調子で云つて出て行つた。
 二時間ばかしも寒い店さきに腰をかけて待つてゐた。旧暦の年始客が手拭買ひに寄つたり、近所の内儀さんが子供の木綿縞を半反買ひに来たりして、十六七の小僧が相手になつてゐた。
「遅くなりまして。途中で年始客の酔払ひにつかまつたものですから、……どうも失礼しました」兄さんは幾らか赤い顔して帰つて来たが、
「いや、あれも別段激昂してると云ふ訳でもないやうですが、さうした方が、あなたの為めにもいゝと云ふんでして。……やはり一応お帰りになつて金策なさつた方がいゝでせう」
「さうでしたか。どうもご苦労さまでした」と、私も予期してゐたことながら当惑して、
「どうも仕方がありませんね。それで、帰るとしてももう時間が遅いし、どこか他の宿屋へ行つて事情を話して返事の来る間置いて貰ひたいと思ふんですが、それで誠に申し兼ねますが袴をお預けしますから五円だけ貸していたゞけますまいか」と、今度は五円と云ひ
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