どうせ金が足りなければ僕の小さな本の版権でも売つて払ひをするから。何しろこの原稿では実に厭になつてるんで、金の問題でなくどうしても今度は片附けて帰りたいと思つてるんだから……」
「いや実は今帳場へも寄つて来たんだがね、何しろ七十円からになつてるさうだからね、それに君は遅くまで酒を飲んでは芸者々々なんて云ふてんで、ひどく厭がつてるやうだから、兎に角ひと勘定して貰ひたいと云ふんだがね……」
「そいつは困つたね。兎に角君からもう一度話して呉れよ。何だつたら明日東京の本屋へ手紙を出して交渉してもいゝから」
二人で帳場へ行つて話をすることにしたが、何しろ私はひどく酔つてゐたので、却つてまずい印象を与へることになつたらしい。がその晩の事は私にはよく分らなかつた。それで其翌朝はいつになく早起きして、机に向ふ気になつた。
「ゆうべはすつかり酔払つて了つてよく分らなかつたが、内田君何とか云つてゐましたか?」と、私はお膳を持つて来たお内儀に訊いた。
「え、今日お見えになる筈です。今に見えませう」と、お内儀も何気ない顔して云つた。
晴れたいゝ天気であつた。海が青く輝いてゐた。床の間の大花瓶の梅が二三輪綻びかけたのも風情ありげに見えた。猟銃の音など聞えた。斯んな気持なら書けるぞ! と云ふ気がされた。あの不幸な従兄が最後まで人をも世をも怨まず、与へられた一日々々の生を感謝するやうな気持で活きてゐた静かな謙遜な心境が同感出来るやうな思ひが、私の胸にも動きかけてるのを感じた。「これでいゝのだ。斯う云ふ気持で素直に書いて行けばいゝのだ」斯う思つて私はまた新らしく原稿紙に題を書きつけた。この小説で私は従兄の霊に懺悔したいことがあるのだが、世間的な羞恥心から私はいつも躊躇を感じてゐる。それで彼の霊魂から責められてる気がする。霊魂を欺くことは出来ない。霊魂を否定したところが、自分の良心の苦痛は去らない。私がこの小説を書き続けられないのは単に技巧などで困つて居るせゐではなく、さうした根本的な欠陥、自責の念から書き渋つて了ふのらしい。やつぱし素直な謙遜な気持にならなければいけないと思つた。さう思ふと気分が軽くなつて、筆を持つ勇気が出て来た。斯うして雑念を去つて机に向つてゐられると云ふことだけでもたいへんな幸福なことではないか、さう思つて二三枚書き続けて行つた。
が午後内田がやつて来て、帳場で相談でもし
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