人は養子であつた。それが料理番をした。一人娘の若いお内儀は子の無い三十近い女で、平べつたい赭ら顔のがさつな女であつた。「あなたは、こゝへ斯う云ふ風に頬髯を生やすと、あなたのお父さんそつくりですね」と、私は両手で自分の頬に鐘馗髯を描く手真似をして、余り応柄なのが癪に障つて酔つた時に云つてやつたことがあつた。何事にもつけ/\云ふ彼女も、さすがに怯んだ態であつた。

     二

 雪の中なぞ歩るいたせゐか、私はその翌日から風心地で、昼間は寝床の中で過し、夕方近くなつて起きては遅くまで酒を飲んだ。雪がかなり積つてゐた。ひとりで波の音を聞きながら酒を飲んでゐると、Fのことがしきりに思ひ出されて来る。鎌倉の方でも降つたゞらうが、寺から学校までは十五町程もあるので、今朝は困つたゞらうと云ふやうなことが考へられる。昨年の暮に死んだ従兄のことが考へ出されてならない。……
 その従兄のことを、私は前にある雑誌へ発表した未完原稿の続きとして書くつもりであつた。がその原稿では私はかなり手古摺つてゐた。書く気分はまつたく無くなつてゐるのだが、投つて了ふ訳に行かない事情もあつた。それで、今度はどんなことをしても、二十枚でも三十枚でも書いて帰らねばならないと思つた。その原稿が書けない為めに、此頃の私の気持がかなり不自由なものにされてゐた。その原稿では多く知人の悪口めいたことばかし書き立てたので、そんなことが祟つて、それで斯う書けないのではないか知らと、私は呪はれてゐるやうな気さへしたのだ。
 三日目の晩私はいよ/\思ひ切つて晩酌をやめて、二時過ぎまで机に向つて六七枚書いた。その朝、朝昼兼帯のお膳を持つて来たお内儀が、私が箸を置くのを待つて、
「今日は旧の大晦日だもんですから、払ひの都合もあるもんですから、ご勘定を頂きたいと申して居るんですが……」と云ひ出した。
「さうですか。それは困りましたね。実は私は金は持つてないんですがね、それで内田君に頼んでつれて来て貰つたやうな訳なんですが……」
「いや、それはね、内田さんがつれて来て下すつたお客さんのことですから、内田さんから頂戴すれば手前の方では差支えない訳なんですけどね、ご都合でどうかと思ひましたものですからね、それに内田さんとは顔は知つてると云ふだけで大して懇意と云ふ訳でもありませんし、あの人の停車場前の兄さんの店からは近いのでちよい/\した
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