いことになるからね。そんなことで打込《ぶちこ》まれた人間も、随分無いこともないんだから、君も注意せんと不可んよ。人間は何をしたってそれは各自の自由だがね、併し正を踏んで倒れると云う覚悟を忘れては、結局この社会に生存が出来なくなる……」

 …………
 空行李、空葛籠《からつづら》、米櫃《こめびつ》、釜、其他目ぼしい台所道具の一切を道具屋に売払って、三百に押かけられないうちにと思って、家を締切って八時近くに彼等は家を出た。彼は書きかけの原稿やペンやインキなど入れた木通《あけび》の籠を持ち、尋常二年生の彼の長男は書籍や学校道具を入れた鞄を肩へかけて、袴を穿いていた。幾日も放《ほ》ったらかしてあった七つになる長女の髪をいゝ加減に束ねてやって、彼は手をひいて、三人は夜の賑かな人通りの繁《はげ》しい街の方へと歩いて行った。彼はひどく疲労を感じていた。そしてまだ晩飯を済ましてなかったので、三人ともひどく空腹であった。
 で彼等は、電車の停留場近くのバーへ入った。子供等には寿司をあてがい、彼は酒を飲んだ。酒のほかには、今の彼に元気を附けて呉れる何物もないような気がされた。彼は貪るように、また非常に尊いものかのように、一杯々々味いながら飲んだ。前の大きな鏡に映る蒼黒い、頬のこけた、眼の落凹んだ自分の顔を、他人のものかのように放心した気持で見遣りながら、彼は延びた頭髪を左の手に撫であげ/\、右の手に盃を動かしていた。そして何を考えることも、何を怖れるというようなことも、出来ない程疲れて居る気持から、無意味な深い溜息ばかしが出て来るような気がされていた。
「お父さん、僕エビフライ喰べようかな」
 寿司を平らげてしまった長男は、自分で読んでは、斯う並んでいる彼に云った。
「よし/\、……エビフライ二――」
 彼は給仕女の方に向いて、斯う機械的に叫んだ。
「お父さん、僕エダマメを喰べようかな」
 しばらくすると、長男はまた云った。
「よし/\、エダマメ二――それからお銚子……」
 彼はやはり同じ調子で叫んだ。
 やがて食い足った子供等は外へ出て、鬼ごっこ[#「ごっこ」に傍点]をし始めた。長女は時々|扉《ドア》のガラスに顔をつけて父の様子を視に来た。そして彼の飲んでるのを見て安心して、また笑いながら兄と遊んでいた。
 厭らしく化粧した踊り子がカチ/\と拍子木を鼓《たた》いて、その後から十六七
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