山本山と銘打った紅いレッテルの美《うる》わしさ! 彼はその刹那に、非常な珍宝にでも接した時のように、軽い眩暈《めまい》すら感じたのであった。
 彼は手を附けたらば、手の汗でその快よい光りが曇り、すぐにも錆が附きやしないかと恐るるかのように、そうっと注意深く鑵を引出して、見惚《みと》れたように眺め廻した。……と彼は、ハッとした態《さま》で、あぶなく鑵を取落しそうにした。そして忽《たちま》ち今までの嬉しげだった顔が、急に悄《しょ》げ垂れた、苦《にが》いような悲しげな顔になって、絶望的な太息を漏らしたのであった。
 それは、その如何にも新らしい快よい光輝を放っている山本山正味百二十匁入りのブリキの鑵に、レッテルの貼られた後ろの方に、大きな凹みが二箇所というもの、出来ていたのであった。何物かへ強く打つけたか、何物かで強く打ったかとしか思われない、ひどい凹みであった。やがて、当然、彼の頭の中に、これを送った処のYという人間が浮んで来た。あの明確な頭脳の、旺盛な精力の、如何なる運命をも肯定して驀地《まっしぐ》らに未来の目標に向って突進しようという勇敢な人道主義者――、常に異常な注意力と打算力とを以て自己の周囲を視廻し、そして自己に不利益と見えたものは天上の星と雖《いえど》も除き去らずには措《お》かぬという強猛な感情家のY、――併し彼は如何に猜疑心を逞しゅうして考えて見ても、まさかYが故意に、彼を辱しめる為めに送って寄越したのだとは、彼にも考えることが出来なかった。……それは余りに理由《いわれ》ないことであった。
「何しろ身分が身分なんだから、それは大したものに違いなかろうからな、一々開けて検《しら》べて見るなんて出来た訳のものではなかろう。つまり偶然に、斯うした傷物が俺に当ったという訳だ……」
 それが当然の考え方に違いなかった。併し彼は何となく自分の身が恥じられ、また悲しく思われた。偶然とは云え、斯うした物に紛れ当るということは、余程呪われた者の運命に違いないという気が強くされて――
 彼は、子供等が庭へ出て居り、また丁度細君も使いに行ってて留守だったのを幸い、台所へ行って擂木《すりこぎ》で出来るだけその凹みを直し、妻に見つかって詰問されるのを避ける準備をして置かねばならなかった。
 それから二三日経って、彼はKに会った。Kは彼の顔を見るなり、鋭い眼に皮肉な微笑を浮べて、

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