で、たうとう十二時近くなつてしまつた。
「私のはキザなんですけど……」斯う云つて、彼は肩書附きの名刺を自分に渡した。その裏に――音もなく秋雨けぶる湯の宿に、くみかはしけり別れの酒を――彼は斯う書いて呉れた。
 辭退するのを、自分もまたゲートルを卷きレーンコートを着て、途中まで送つて行くことにした。
「僕に構はないで、あなたはドン/\先きを急いで下さい。あなたの姿の見える間、僕はついて行くんですから。あなたの姿が見えなくなつたところで、僕は引返すことにしますから、あなたは僕に構はないでドン/\急いで下さい。時間を遲らしてしまつたのですから……」湖畔の道を足弱の自分と並んで行く彼を、自分は斯う云つて促し立てた。
 一町遲れ二町遲れして――が道がグルリと曲がると、三四町先きをステツキを振りながら大股に歩いて行く彼の後姿を見出して、自分はその度に「オーイ! オーイ!」と怒鳴つた。が彼の歩調はだん/\と早まつた。自分は一里十町――戰場ヶ原の中程の三軒家の茶店までは追付いて行つて、そこで茶を飮んで別れたいと思つたのだが、二十町も來ないうちに自分は息が切れてしまひ、路傍に打倒れさうになり、彼の姿を失つてしまつた。で自分は最後の「オーイ!」を長く叫んで、悄然として雨の中を引返したのだつた。
 それからの五日間、自分は朝から飯も食はずに酒を飮み、睡むり、そしてまだ醉のさめ切らないうちに湯に飛び込んで來ては、また飮み出す――そんなことを繰返してゐたのだつた。

 が、たうとう、おせいが來た翌々日、自分はまた朝から酒を飮んで、夕方、飮食物共だつたが、洗面器にほとんど三杯――殊に最後の一杯は、腐つた魚の腸のやうなものを、何の疼痛も感ぜずにドク/\と吐いてしまつた。その晩はほとんど昏睡状態だつた。夕方からの霰が、翌日は大吹雪になつてゐた。膏藥か松脂のやうな血便が、三四日續いた。それが止んだ自分にポカリとまゐるのではないかと云ふ氣もされたが、しかし無意識のうちに搜してゐたのかも知れない死場所としては、この山の湖畔はわるくないと思つた。田舍の妻子、おせいの腹の子のことで、おせいに遺言した。
「酒のせゐですから、よくあることですから、あなたが今度が初めてでしたら、決して心配なことはありませんから、力を落さないで……」
 宿の主人は斯う繰返して力を附けて呉れたが、しかし結局中禪寺からおせいの分と二臺
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