二三日前に初雪があつた。その雪どけのハネが、彼女の羽織の脊まであがつてゐた。
「兎に角ドテラに着替へて、ひとはひりして來よう。……何しろこの通り寒いんだからね。冬シヤツにドテラ二枚重ねてゐて、それで寒いんだからね。それに來月早々宿でも日光にさがつちまふんだからね。毎日その準備をしてゐるんで、こつちでも氣が氣でないもんだから、此間から毎日酒ばかし飮んでゐた」木管でひいてる硫黄泉のドン/\溢れ出てゐる廣い浴槽にふたりでつかりながら、自分は久しぶりで孤獨から救はれたホツとした氣持で、おせいに話しかけたりした。
宿では、千本から漬けるのだと云ふ來年の澤庵の仕度も出來、物置きから雲がこひの戸板など引出して、毎日山をくだる準備に忙がしかつた。今月中に二組の團體客の豫約を受けてゐるほかには、滯在客は自分一人きりで、一晩泊まりの客もほとんど來なかつた。紅葉は疾くに散つて、栂、樅、檜類などの濁つた緑の間に、灰色の幹や枝の樹膚を曝らしてゐた。湯の湖は、これからの永い冬を思ひ佗びるかのやうに、凝然と、冷めたく湛へてゐた。
夏前から文官試驗の勉強に來てゐて、受驗後も成績發表まで保養がてら暢氣に滯在してゐる二人の若い法學士――F君は二十五、N君は二十四――二人とも學校を出てすぐ大藏省に入つたのだが、試驗準備中は何ヶ月役所を休んでゐても月給が貰へるのだと云ふ、羨ましいやうな身の上の青年たちだつた。彼等は白根山、太郎山などと、毎日のやうに冐險的な山登りをやつてゐた。足にも身體にも自信のない自分は、精々湯の湖畔を一周して石楠花のステツキを搜したり、サビタの木のパイプを伐りに出かけるやうな時に彼等のお伴をしたが、すつかり懇意になつてゐた。がN君は成績發表前、月初めに歸京して、廣い宿にF君と自分の二人だけになつた。それからぢき成績が發表されたが、二人とも見事にパスしてゐた。
十日頃に自分の仕事も一片附いたので、それからは、天氣さへいゝと、F君につれられて、蓼沼、金精峠などと、自分も靴に卷ゲートル着けて、そこら中を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、はつきりしない金の當てを待つてゐるもどかしさ、所在なさの日を紛らして送つてゐた。晩には大抵、自分の部屋か、彼の部屋かで酒を飮みながら話し合つた。畠違ひの斯うした青年と近づきを持たない自分に、F君は未來のある新時代の青年官吏――官吏と云
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