に戯れゐしが。折から裏の※[#「穴/果」、第3水準1−89−51]宿《とや》の方《かた》に当りて、鶏の叫ぶ声|切《しき》りなるに、哮々《こうこう》と狐の声さへ聞えければ。「さては彼の狐めが、また今日も忍入りしよ。いぬる日あれほど懲《こら》しつるに、はや忘《わすれ》しと覚えたり。憎き奴め用捨はならじ、此度《こたび》こそは打ち取りてん」ト、雪を蹴立《けだ》てて真一文字に、※[#「穴/果」、第3水準1−89−51]宿の方へ走り往《ゆけ》ば、狐はかくと見《みる》よりも、周章狼狽《あわてふためき》逃げ行くを、なほ逃《のが》さじと追駆《おっか》けて、表門を出《いで》んとする時、一声|※[#「口+翁」、66−5]《おう》と哮《たけ》りつつ、横間《よこあい》より飛《とん》で掛るものあり。何者ならんと打見やれば、こはそも怎麼《いか》にわれよりは、二|層《まわり》も大《おおい》なる虎の、眼《まなこ》を怒らし牙《きば》をならし、爪《つめ》を反《そ》らしたるその状態《ありさま》、恐しなんどいはん方《かた》なし。尋常《よのつね》の犬なりせば、その場に腰をも抜《ぬか》すべきに。月丸は原来心|猛《たけ》き犬なれば、そのまま虎に※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《くっ》てかかり、喚《おめき》叫んで暫時《しばし》がほどは、力の限り闘《たたか》ひしが。元より強弱敵しがたく、無残や肉裂け皮破れて、悲鳴の中《うち》に息|絶《たえ》たる。その死骸《なきがら》を嘴《くち》に咬《くわ》へ、あと白雪を蹴立《けたて》つつ、虎は洞《ほら》へと帰り行く。あとには流るる鮮血《ちしお》のみ、雪に紅梅の花を散らせり。
雌《つま》の花瀬は最前より、物陰にありて件《くだん》の様子を、残りなく詠《なが》めゐしが。身は軟弱《かよわ》き雌犬《めいぬ》なり。かつはこのほどより乳房|垂《た》れて、常ならぬ身にしあれば、雄《おっと》が非業《ひごう》の最期《さいご》をば、目前《まのあたり》見ながらも、救《たす》くることさへ成りがたく、独《ひと》り心を悶《もだ》へつつ、いとも哀れなる声張上げて、頻《しき》りに吠《ほ》え立つるにぞ、人々漸く聞きつけて、凡事《ただごと》ならずと立出でて見れば。門前の雪八方に蹴散らしたる上に、血|夥《おびただ》しく流れたるが、只《と》見れば遙《はるか》の山陰《やまかげ》に、一匹の大虎が、嘴に咬へて持て行くものこそ、正《まさ》しく月丸が死骸《なきがら》なれば、「さては彼の虎めに喰《く》はれしか、今一足早かりせば、阿容々々《おめおめ》他《かれ》は殺さじものを」ト、主人《あるじ》は悶蹈《あしずり》して悔《くや》めども、さて詮術《せんすべ》もあらざれば、悲しみ狂ふ花瀬を賺《す》かして、その場は漸くに済ませしが。済まぬは花瀬が胸の中《うち》、その日よりして物狂はしく。旦暮《あけくれ》小屋にのみ入りて、与ふる食物《かて》も果敢々々敷《はかばかしく》は喰《くら》はず。怪しき声して啼《なき》狂ひ、門《かど》を守ることだにせざれば、物の用にも立《たた》ぬなれど、主人は事の由来《おこり》を知れば、不憫さいとど増さりつつ、心を籠めて介抱なせど。花瀬は次第に窶《やつ》るるのみにて、今は肉落ち骨|秀《ひい》で、鼻頭《はなかしら》全く乾《かわ》きて、この世の犬とも思はれず、頼み少なき身となりけり。かかる折から月満ちけん、俄《にわ》かに産の気|萌《きざ》しつつ、苦痛の中に産み落せしは、いとも麗はしき茶色毛の、雄犬ただ一匹なるが。背のあたりに金色の毛混りて、妙《たえ》なる光を放つにぞ、名をばそのまま黄金丸《こがねまる》と呼びぬ。
さなきだに病《やみ》疲れし上に、嬰児《みどりご》を産み落せし事なれば、今まで張りつめし気の、一時に弛《ゆる》み出でて、重き枕いよいよ上らず、明日《あす》をも知れぬ命となりしが。臨終《いまわ》の際《きわ》に、兼てより懇意《こころやすく》せし、裏の牧場《まきば》に飼はれたる、牡丹《ぼたん》といふ牝牛《めうし》をば、わが枕|辺《べ》に乞《こ》ひよせ。苦しき息を喘《ほっ》ト吻《つ》き、「さて牡丹ぬし。見そなはす如き妾《わらわ》が容体《ありさま》、とても在命《ながらえ》る身にしあらねば、臨終の際にただ一|事《こと》、阿姐《あねご》に頼み置きたき件《こと》あり。妾が雄《おっと》月丸ぬしは、いぬる日猛虎|金眸《きんぼう》がために、非業の最期を遂げしとは、阿姐も知り給ふ処なるが。彼《かの》時妾|目前《まのあた》り、雄が横死《おうし》を見ながらに、これを救《たす》けんともせざりしは、見下げ果てたる不貞の犬よと、思ひし獣もありつらんが。元より犬の雌《つま》たる身の、たとひその身は亡《ほろ》ぶとも、雄が危急を救ふべきは、いふまでもなき事にして、義を知る獣の本分なれば、妾とて心付かぬにはあらねど
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