り狂ひ。さては途中にふり落せしならんと、引返して求むれど、これかと思ふ影だに見えぬに、今はた詮《せん》なしとあきらめしが。諦《あきら》められぬはわが心中。彼の聴水が所業《しわざ》なること、目前《まのあたり》見て知りしかば、いかにも無念さやるせなく。殊《こと》には他《かれ》は黄金丸が、倶不戴天《ぐふたいてん》の讐《あだ》なれば、意恨はかの事のみにあらず。よしよし今宵は引捕《ひっとら》へて、後黄金丸に逢ひし時、土産《みやげ》になして取らせんものと、心に思ひ定めつつ。さきに牛小屋を忍び出でて、其処よ此処よと尋ねめぐり、端《はし》なくこの場に来合せて、思ひもかけぬ御身たちに、邂逅ふさへ不思議なるに、憎しと思ふかの聴水も、かく捕はれしこそ嬉しけれ」ト、語るを聞きて黄金丸は、「さは文角ぬしにまで、かかる悪戯《いたずら》作《な》しけるよな。返す返すも憎き聴水、いで思ひ知らせんず」ト、噬《か》みかかるをば文角は、再び霎時《しばし》と押し隔て、「さな焦燥《いら》ちそ黄金丸。他《かれ》已《すで》に罠に落ちたる上は、俎板《まないた》の上なる魚《うお》に等しく、殺すも生《いか》すも思ひのままなり。されども彼の聴水は、金眸が股肱《ここう》の臣なれば、他《かれ》を責めなば自《おのず》から、金眸が洞《ほら》の様子も知れなんに、暫くわが為《な》さんやうを見よ」ト、いひつつ進みよりて、聴水が襟頭《えりがみ》を引掴《ひっつか》み、罠を弛《ゆる》めてわが膝《ひざ》の下に引き据《す》えつ。「いかにや聴水。かくわれ曹《ら》が計略に落ちしからは、爾《なんじ》が悪運もはやこれまでとあきらめよ。原来爾は稲荷大明神《いなりだいみょうじん》の神使《かみつかい》なれば、よくその分を守る時は、人も貴《とうと》みて傷《きずつ》くまじきに。性|邪悪《よこしま》にして慾深ければ、奉納の煎《あげ》豆腐を以《も》て足れりとせず。われから宝珠を棄てて、明神の神祠《みやしろ》を抜け出で、穴も定めぬ野良狐となりて、彼の山に漂泊《さまよ》ひ行きつ。金眸が髭《ひげ》の塵《ちり》をはらひ、阿諛《あゆ》を逞《たく》ましうして、その威を仮り、数多《あまた》の獣類《けもの》を害せしこと、その罪|諏訪《すわ》の湖よりも深く、また那須野《なすの》が原《はら》よりも大《おおい》なり。さばれ爾が尾いまだ九ツに割《さ》けず、三国《さんごく》飛行《ひぎょう》の神通なければ、つひに鈍《おぞ》くも罠に落ちて、この野の露と消えんこと、けだし免《のが》れぬ因果応報、大明神の冥罰《みょうばつ》のほど、今こそ思ひ知れよかし。されども爾|確乎《たしか》に聞け。過ちて改むるに憚《はばか》ることなく、末期《まつご》の念仏一声には、怎麼《いか》なる罪障も消滅するとぞ、爾今前非を悔いなば、速《すみや》かに心を翻へして、われ曹《ら》がために尋ぬることを答へよ。已《すで》に爾も知る如く、年頃われ曹彼の金眸を讐《あだ》と狙ひ。機会《おり》もあらば討入りて、他《かれ》が髭首|掻《かか》んと思へと。怎麼にせん他が棲む山、路《みち》嶮《けん》にして案内知りがたく。加之《しかのみならず》洞の中《うち》には、怎麼なる猛獣|侍《はん》べりて、怎麼《いか》なる守備《そなえ》ある事すら、更に探り知る由なければ、今日までかくは逡巡《ためら》ひしが、早晩《いつか》爾を捕へなば、糺問なして語らせんと、日頃思ひゐたりしなり。されば今われ曹《ら》が前にて、彼の金眸が洞の様子、またあの山の要害怎麼に、委敷《くわし》く語り聞かすべし。かくてもなお他を重んじ、事の真実《まこと》を語らずば、その時こそは爾をば、われ曹三匹|更《かわ》る更る。角に掛け牙に裂き、思ひのままに憂苦《うきめ》を見せん。もしまたいはば一思ひに、息の根止めて楽に死なさん。とても逃れぬ命なれば、臨終《いまわ》の爾が一言にて、地獄にも落ち極楽にも往かん。とく思量《しあん》して返答せよ」ト、あるいは威《おど》しあるいは賺《すか》し、言葉を尽していひ聞かすれば。聴水は何思ひけん、両眼より溢落《はふりおつ》る涙|堰《せ》きあへず。「ああわれ誤てり誤てり。道理《ことわり》切《せ》めし文角ぬしが、今の言葉に僕《やつがれ》が、幾星霜《いくとしつき》の迷夢|醒《さ》め、今宵ぞ悟るわが身の罪障思へば恐しき事なりかし。とまれ文角ぬし、和殿《わどの》が言葉にせめられて、今こそ一|期《ご》の思ひ出に、聴水物語り候べし。黄金ぬしも聞き給へ」ト、いひつつ咳《しわぶき》一咳《ひとつ》して、喘《ほ》と吻《つ》く息も苦しげなり。
第十四回
この時文角は、捕へし襟頭《えりがしら》少し弛《ゆる》めつ、されども聊《いささ》か油断せず。「いふ事あらば疾《と》くいへかし。この期に及びわれ曹《ら》を欺き、間隙《すき》を狙《ねら》ふて逃げんとす
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