えしかば。「こは意外長坐しぬ、宥《ゆる》したまへ」ト会釈しつつ、わが棲居《すみか》をさして帰り行く、途すがら例の森陰まで来たりしに、昨日の如く木の上より、矢を射かくるものありしが。此度《こたび》は黄金丸肩をかすらして、思はず身をも沈めつ、大声あげて「おのれ今日も狼藉《ろうぜき》なすや、引捕《ひっとら》へてくれんず」ト、走り寄《よっ》て木の上を見れば、果して昨日の猿にて、黄金丸の姿を見るより、またも木葉《このは》の中《うち》に隠れしが、われに木伝《こづた》ふ術あらねば、追駆《おっか》けて捕ふることもならず。憎き猿めと思ふのみ、そのままにして打棄てたれど。「さるにても何故《なにゆえ》に彼の猿は、一度ならず二度までも、われを射んとはしたりけん。われら猿とは古代《いにしえ》より、仲|悪《あ》しきものの譬《たとえ》に呼ばれて、互ひに牙《きば》を鳴らし合ふ身なれど、かくわれのみが彼の猿に、執念《しゅうね》く狙はるる覚えはなし。明日にもあれ再び出でなば、引捕《ひっとら》へて糺《ただ》さんものを」ト、その日は怒りを忍びて帰りぬ。――畢竟《ひっきょう》この猿は何者ぞ。また狐罠の落着《なりゆき》怎麼《いかん》。そは次の巻《まき》を読みて知れかし。

   上巻終
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   下巻

     第九回

 かくて黄金丸は、ひたすら帰途《かえり》を急ぎしが、路程《みちのほど》も近くはあらず、かつは途中にて狼藉せし、猿を追駆《おいか》けなどせしほどに。意外《おもいのほか》に暇どりて、日も全く西に沈み、夕月|田面《たのも》に映る頃《ころ》、漸《ようや》くにして帰り着けば。鷲郎《わしろう》ははや門に馮《よ》りて、黄金丸が帰着《かえり》を待ちわびけん。他《かれ》が姿を見るよりも、連忙《いそがわ》しく走り迎へつ、「※[#「口+約」、89−6]《やよ》、黄金丸、今日はなにとてかくは遅《おそ》かりし。待たるる身より待つわが身の、気遣《きづか》はしさを猜《すい》してよ。去《いぬ》る日の事など思ひ出でて、安き心はなきものを」ト、喞言《かこと》がましく聞ゆれば、黄金丸は呵々《かやかや》と打ち笑ひて、「さな恨みそ。今日は朱目《あかめ》ぬしに引止められて、思はず会話《はなし》に時を移し、かくは帰着《かえり》の後《おく》れしなり。構へて待たせし心ならねば……」ト、詫《わ》ぶるに鷲郎も深くは咎《とが》めず、やがて笑ひにまぎらしつつ、そのまま中《うち》に引入れて、共に夕餉《ゆうげ》も喰《くら》ひ果てぬ。
 暫《しばらく》して黄金丸は、鷲郎に打向ひて、今日朱目が許《もと》にて聞きし事ども委敷《くわしく》語り、「かかる良計ある上は、速《すみや》かに彼の聴水を、誑《おび》き出《いだ》して捕《とらえ》んず」ト、いへば鷲郎もうち点頭《うなず》き、「狐を釣るに鼠《ねずみ》の天麩羅《てんぷら》を用ふる由は、われ猟師《かりうど》に事《つか》へし故、疾《とく》よりその法は知りて、罠《わな》の掛け方も心得つれど、さてその餌《えば》に供すべき、鼠のあらぬに逡巡《ためら》ひぬ」ト、いひつつ天井を打眺《うちなが》め、少しく声を低めて、「御身がかつて救《たす》けたる、彼の阿駒《おこま》こそ屈竟《くっきょう》なれど。他《かれ》頃日《このごろ》はわれ曹《ら》に狎《なず》みて、いと忠実《まめやか》に傅《かしず》けば、そを無残に殺さんこと、情も知らぬ無神狗《やまいぬ》なら知らず、苟《かり》にも義を知るわが們《ともがら》の、作《な》すに忍びぬ処ならずや」「実《まこと》に御身がいふ如く、われも途《みち》すがら考ふるに、まづ彼《あ》の阿駒に気は付きたれど。われその必死を救ひながら、今また他《かれ》が命を取らば、怎麼《いか》にも恩を被《き》するに似て、わが身も快くは思はず。とてもかくてもこの外に、鼠を探《さが》し捕《と》らんに如《し》かじ」ト、言葉いまだ畢《おわ》らざるに、忽《たちま》ち「呀《あっ》」と叫ぶ声して、鴨居《かもい》より撲地《はた》ト顛落《まろびおつ》るものあり。二匹は思はず左右に分れ、落ちたるものを佶《きっ》と見れば、今しも二匹が噂《うわさ》したる、かの阿駒なりけるが。なにとかしたりけん、口より血|夥《おびただ》しく流れ出《いず》るに。鷲郎は急ぎ抱《いだ》き起しつ、「こや阿駒、怎麼にせしぞ」「見れば面《おもて》も血に塗《まみ》れたるに、……また猫にや追はれけん」「鼬《いたち》にや襲はれたる」「疾《と》くいへ仇敵《かたき》は討ちてやらんに」ト、これかれ斉《ひと》しく勦《いた》はり問へば。阿駒は苦しき息の下より、「いやとよ。猫にも追はれず、鼬にも襲はれず、妾《わらわ》自らかく成り侍《はべ》り」「さは何故の生害《しょうがい》ぞ」「仔細ぞあらん聞かまほし」ト、また連忙《いそがわ》しく問《とい》かくれば。阿駒は
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