》を佶《きっ》ト見れば。二抱《ふたかか》へもある赤松の、幹|両股《ふたまた》になりたる処に、一匹の黒猿昇りゐて、左手《ゆんで》に黒木の弓を持ち、右手《めて》に青竹の矢を採りて、なほ二の矢を注《つが》へんとせしが。黄金丸が睨《ね》め付《つけ》し、眼《まなこ》の光に恐れけん、その矢も得《え》放《はな》たで、慌《あわただ》しく枝に走り昇り、梢《こずえ》伝ひに木隠《こがく》れて、忽ち姿は見えずなりぬ。かくて次の日になりけるに、不思議なるかな萎《な》えたる足、朱目が言葉に露たがはず、全く癒えて常に異ならねば。黄金丸は雀躍《こおどり》して喜び。急ぎ礼にゆかんとて、些《ちと》ばかりの豆滓《きらず》を携へ、朱目が許《もと》に行きて、全快の由|申聞《もうしきこ》え、言葉を尽して喜悦《よろこび》を陳《の》べつ。「失主狗《はなれいぬ》にて思ふに任せねど、心ばかりの薬礼なり。願《ねがわ》くは納め給へ」ト、彼の豆滓を差し出《いだ》せば。朱目も喜びてこれを納め。ややありていへるやう、「昨日《きのう》御身に聞きたきことありといひしが、余の事ならず」ト、いひさして容《かたち》をあらため、「某《それがし》幾歳《いくとせ》の劫量《こうろう》を歴《へ》て、やや神通を得てしかば、自《おのずか》ら獣の相を見ることを覚えて、十《とお》に一《ひとつ》も誤《あやまり》なし。今御身が相を見るに、世にも稀《まれ》なる名犬にして、しかも力量《ちから》万獣《ばんじゅう》に秀《ひい》でたるが、遠からずして、抜群の功名あらん。某この年月《としつき》数多《あまた》の獣に逢ひたれども、御身が如きはかつて知らず。思ふに必ず由緒《よし》ある身ならん、その素性聞かまほし」トありしかば。黄金丸少しもつつまず、おのが素性来歴を語れば。朱目は聞いて膝を打ち。「それにてわれも会得《えとく》したり。総じて獣類《けもの》は胎生なれど、多くは雌雄|数匹《すひき》を孕《はら》みて、一親一子はいと稀なり。さるに御身はただ一匹にて生まれしかば、その力五、六匹を兼ねたり。加之《しかのみならず》牛に養はれて、牛の乳に育《はぐく》まれしかば、また牛の力量をも受得《うけえ》て、けだし尋常《よのつね》の犬の猛きにあらず。さるに怎麼《いか》なればかく、鈍《おぞ》くも足を傷《やぶ》られ給ひし」ト、訝《いぶ》かり問へば黄金丸は、「これには深き仔細《しさい》あり。原来某は、彼の金眸と聴水を、倶不戴天《ぐふたいてん》の仇《あだ》と狙《ねら》ふて、常に油断《ゆだん》なかりしが。去《いぬ》る日|件《くだん》の聴水を、途中にて見付しかば、名乗りかけて討たんとせしに、かへつて他《かれ》に方便《たばか》られて、遂にかかる不覚を取りぬ」ト、彼のときの事|具《つぶさ》に語りつつ、「思へば憎き彼の聴水、重ねて見当らばただ一噬みと、朝夕《あけくれ》心を配《く》ばれども、彼も用心して更に里方へ出でざれば、意恨《うらみ》を返す手掛りなく、無念に得堪えず候」ト、いひ畢《おわ》りて切歯《はがみ》をすれば、朱目も点頭《うなず》きて、「御身が心はわれとく猜《すい》しぬ、さこそ無念におはすらめ。さりながら黄金ぬし。御身|実《まこと》に他《かれ》を討たんとならば。われに好《よ》き計略《はかりごと》あり、及ばぬまでも試み給はずや、凡《およ》そ狐《きつね》狸《たぬき》の類《たぐい》は、その性質《さが》至《いたっ》て狡猾《わるがしこ》く、猜疑《うたがい》深き獣なれば、憖《なまじ》いに企《たく》みたりとも、容易《たやす》く捕へ得つべうもあらねど。その好む処には、君子も迷ふものと聞く、他《かれ》が好むものをもて、釣り出《いだ》して罠《わな》に落さんには、さのみ難きことにあらず」トいふに。黄金丸は打喜び、「その釣り落す罠とやらんは、兼《かね》てより聞きつれど、某いまだ見し事なし。怎麼《いか》にして作り候や」「そは斯様々々《かようかよう》にして拵《こしら》へ、それに餌《えば》をかけ置くなり」「して他《かれ》が好む物とは」「そは鼠の天麩羅《てんぷら》とて、肥《こえ》太りたる雌鼠を、油に揚げて掛けおくなり。さすればその香気|他《かれ》が鼻を穿《うが》ちて、心魂忽ち空になり、われを忘れて大概《おおかた》は、その罠に落つるものなり。これよく猟師《かりうど》のなす処にして、かの狂言にもあるにあらずや。御身これより帰りたまはば、まづその如く罠を仕掛て、他が来《きた》るを待ち給へ。今宵あたりは彼の狐の、その香気に浮かれ出でて、御身が罠に落ちんも知れず」ト、懇切《ねんごろ》に教へしかば。「こは好《よ》きことを聞き得たり」ト、数度《あまたたび》喜び聞え、なほ四方山《よもやま》の物語に、時刻を移しけるほどに、日も山端《やまのは》に傾《かたぶ》きて、塒《ねぐら》に騒ぐ群烏《むらがらす》の、声かしましく聞
前へ 次へ
全23ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
巌谷 小波 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング