潸然《はらはら》と涙を落し、「さても情深き殿たち哉《かな》。かかる殿のためにぞならば、捨《すつ》る命も惜《おし》くはあらず。――妾が自害は黄金ぬしが、御用に立たん願《ねがい》に侍り」「さては今の物語を」「爾《なんじ》は残らず……」「鴨居の上にて聞いて侍り。――妾|去《いぬ》る日|烏円《うばたま》めに、無態の恋慕しかけられて、已《すで》に他《かれ》が爪《つめ》に掛り、絶えなんとせし玉の緒を、黄金ぬしの御情《おんなさけ》にて、不思議に繋《つな》ぎ候ひしが。彼《かの》時わが雄《おっと》は烏円《うばたま》のために、非業の死をば遂げ給ひ。残るは妾ただ一匹、年頃契り深からず、石見銀山《いわみぎんざん》桝落《ますおと》し、地獄落しも何のその。縦令《たと》ひ石油の火の中も、盥《たらい》の水の底までも、死なば共にと盟《ちこ》ふたる、恋し雄に先立たれ、何がこの世の快楽《たのしみ》ぞ。生きて甲斐なきわが身をば、かく存命《ながら》へて今日までも、君に傅《かしず》きまゐらせしは、妾がために雄の仇なる、かの烏円をその場を去らせず、討ちて給ひし黄金ぬしが、御情に羈《ほだ》されて、早晩《いつ》かは君の御為《おんため》に、この命を進《まい》らせんと、思ふ心のあればのみ。かくて今宵図らずも、殿たち二匹の物語を、鴨居の上にて洩《も》れ聞きつ。さても嬉しや今宵こそ、御恩に報ゆる時来れと、心|私《ひそ》かに喜ぶものから。今殿たちが言葉にては、とても妾を牙《きば》にかけて、殺しては給はらじと、思ひ定めつさてはかく、われから咽喉《のど》を噛《か》みはべり。恩のために捨る命の。露ばかりも惜しくは侍らず。まいてや雄は妾より、先立ち登る死出の山、峰に生《お》ひたる若草の、根を齧《かじ》りてやわれを待つらん。追駆け行くこそなかなかに、心楽しく侍るかし。願ふはわが身をこのままに、天麩羅とやらんにしたまひて、彼の聴水を打つて給《た》べ。日頃|大黒天《だいこくてん》に願ひたる、その甲斐ありて今ぞかく、わが身は恩ある黄金ぬしの、御用に立たん嬉れしさよ。……ああ苦しや申すもこれまで、おさらばさらば」ト夕告《ゆうつげ》の、とり乱したる前|掻《か》き合せ。西に向ふて双掌《もろて》を組み、眼《まなこ》を閉ぢてそのままに、息絶えけるぞ殊勝なる。
二匹の犬は初《はじめ》より耳|側《そばた》てて、阿駒《おこま》が語る由を聞きしが。黄金丸は
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