、日本の武士道も其通り、十年も掛かつて貯へた金は何を買ふかと云ふと良き馬を買ふ。君から非常な賜物を貰つた、それは何にしたかと云ふと正宗の刀を買つたと云ふやうに、一本の劍一匹の馬に全力を盡したと云ふことは東西古今同じことなのである。西洋では之をシヴアーリーと云ふ。シヴアーリーと云ふのはコート・オヴ・アームと言ひまして、軍服に一種の標が付くのです。是は日本の武士の紋所のやうなものである。尤も東京では車夫でも紋を付けて居りますが、是は今日の話で、昔はやはり紋所と云ふものは立派な武士でなければ付けなかつたのです。西洋のコート・オヴ・アーム、日本の紋所皆同じことです。武士道に依つて己を押へて公の爲、主君の爲に盡すと云ふことは獨り日本に限つたことはない、世界共通のことです。
話が少し脇道に入りましたが、斯う云ふやうな譯で各國共歴史は皆共通であります。西洋人が笑つたとき日本が泣いてゐた譯ではない。西洋人と同じく悲しみ、西洋人が怒るが如く怒り、西洋人の喜ぶが如く二千五百年間送つて來たので、唯西洋人が來たときに文明の形が違つてゐたと云ふだけの話である。西洋人は西洋と交際して日本の文明が初めて生れたやうに言ふ。或は又それを日本で信ずる者もあります。さうでない、日本は歐洲と交通以前既に立派な文明を持つて居つた。今申上げた大化改新と云ふと西歴六百五十年であります。其頃はまだ農業をするのに鐵が少いから鐵で拵へた鍬と木で拵へた鍬と二つ使つて居つた。然るにそれが七八十年の後には木の鍬と云ふものは全く無くなつて、鐵の鍬ばかり使ふやうになつた。西歴の七百年、大寶元年文武天皇が右大臣|阿部の御主人《アベノオヌシ》と云ふ者に賜物を下さつた。それは絹五百匹、絹糸四百卷、金鍬一萬挺下さると云ふことが歴史に載つて居る。一萬挺の金鍬を下さると云ふことは如何に其ときの生産力があつたかと云ふことが分る。其頃はまだ都附近だけが鐵の鍬ばかり使つて居りました。田舍へ行けば木の鍬も混ぜて使つて居たことゝ思ふが、使つて見て木の鍬よりも鐵の鍬の方が良いから出來る限り皆鐵鍬を使ひ、期年にして皆鐵の鍬となつた。然るに英吉利はどうかと云ふと十世紀頃まだ木の鍬を使つて居つた。其農業状態は日本の方が餘程進んで居つたのです。是は唯鍬一つのことですが鍬を造ると云ふことは鐵を採る技術があると云ふことである。其多くは砂鐵です。其砂鐵を溶かして
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