ほど離れた場所に居れる筈がない。私が、当前[#「当前」に「ママ」の注記]、山の上を散歩していたということは、私の不在証明《アリバイ》にさえなるかも知れぬ。このような滑稽な錯覚が現実にままあるらしい。きこりは私を忘れて、山のきこり仲間にふれ歩いた。それから雪の死体を海から引きあげるのに三時間以上をついやした。断崖のしたの海岸まで行くのには、どうしても、それだけの時間がかかるのである。私は、ひとりぼんやり山を降りた。ああ、しかし内心は、ほっとしていたのである! これでもう何もかも、かたがついた。私はなんの恥辱も受けない。もう東京へ帰ろう。雪が、ゆうべ私のところへ泊ったことは誰も知らぬ。私は、いま、ただ朝の散歩から帰ったところだ。「いでゆ」でも雪のほかは、私のにせの名前も居どころをさえ知らない。知れないうちに東京へ帰ろう。東京へ帰ったならば、もうしめたものだ。ああ、私が本名を言わずに、他人の名前を借りたことが、こんなときに役立とうとは。

        十

 万事がうまく行った。私は、わざと出発をのばして、まちの様子をひそかにさぐった。雪が酒に酔って、海岸を散歩して、どこかの岩をふみすべ
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