ろこびそうな言葉をならべた。雪は気嫌《きげん》を直した。私たちは、山の頂きにたどりついた。すぐ足もとから百丈もの断崖になっていて、深い朝霧の奥底に海がゆらゆらうごいていた。
「いい景色でしょう?」
雪は、晴れやかに微笑みつつ、胸を張って空気を吸いこんだ。
私は、雪を押した。
「あ!」
口を小さくあけて、嬰児《えいじ》のようなべそを掻《か》いて、私をちらと振りむいた。すっと落ちた。足をしたにしてまっすぐに落ちた。ぱっと裾《すそ》がひろがった。
「なに見てござる?」
私は、落ちついてふりむいた。山のきこりが、ひっそり立っていた。
「女です。女を見ているのです。」
年老いたきこりは、不思議そうな面持で、崖のしたを覗《のぞ》いた。
「や、ほんとだ。女が浪さ打ちよせられている。ほんとだ。」
私はそのときは放心状態であった。もし、そのきこりが、お前がつき落したのだろうと言ったら、私はそうだと答えたにちがいない。しかし、それは、いまにして判ったのであるが、そのきこりが、私を疑えない筈だった。それは断崖の百丈の距離が、もたらして呉れた錯覚である。たったいま手をかけて殺した男が、まさか、これ
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