のを恥かしがっていたものだから、一高の制服などを着て旅に出るのはいやであった。家が呉服商であるから、着物に対する眼もこえていて、柄の好みなども一流であった。黒無地の紬《つむぎ》の重ねを着てハンチングを被《かぶ》り、ステッキを持って旅に出かけたのである。身なりだけは、それでひとかどの作家であった。
 私が出かけた温泉地は、むかし、尾崎紅葉の遊んだ土地で、ここの海岸が金色夜叉《こんじきやしゃ》という傑作の背景になった。私は、百花楼というその土地でいちばん上等の旅館に泊ることにきめた。むかし、尾崎紅葉もここへ泊ったそうで、彼の金色夜叉の原稿が、立派な額縁のなかにいれられて、帳場の長押《なげし》のうえにかかっていた。
 私の案内された部屋は、旅館のうちでも、いい方の部屋らしく、床には、大観《たいかん》の雀の軸がかけられていた。私の服装がものを言ったらしいのである。女中が部屋の南の障子《しょうじ》をあけて、私に気色を説明して呉《く》れた。
「あれが初島でございます。むこうにかすんで見えるのが房総の山々でございます。あれが伊豆山。あれが魚見崎。あれが真鶴崎。」
「あれはなんです。あのけむりの立って
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