能楽の格だけは断じて崩すまい。その精神で上は神明に仕え下は自己の修養に資しようという無敵、潔白の自負と、いい加減な弟子を後世に残して流風を堕落させては師匠の相伝に対して相済まぬ。それよりも自分の門下を絶った方が正しいという非常時的な大決心が一貫していた事が、明らかに認められる。
能楽は平時の武士道の精華である。舞台はその戦場である。だから稽古は生命を棄てて芸道に生きる方便である。すなわち「捨身成仏《しゃしんじょうぶつ》」が芸道の根本精神でなければならぬ……というのが翁自身のモットーであり、数々の訓戒に含まれている不言不語の点睛であったらしい。次のような逸話の数々が残っている。
◇
翁は初心者が復習する事を禁じた。新しい小謡を習った青少年達が帰りがけに翁の表門を出ると、直ぐに大きな声で嬉しそうに連吟して行くのを聞き付けた翁は、その次の稽古日に必ず訓戒した。
「お前達はあのような自分勝手な謡を自分勝手に謡うことはならぬ。必ず私の前に来て謡いなさい。そうせねば謡が崩れて悪い癖が付く。一度悪い癖が付くとなかなか直らぬものだ」
弟子達は皆恥じて小さくなった。しかし、それでも謡いたいので、門を出ると翁に聞こえぬ位の小声で謡って、だんだん遠くなると大声で怒鳴りながら家へ帰ると、いよいよ大得意になって習い立ての小謡を謡った。家人も梅津先生から習い立ての謡というと謹んで聞いたものだという。
ところがその次の翁の稽古日に翁の前で復習させられると、直ぐに我儘謡を謡った事を看破されて驚き且つ赤面した。
「そげな節をば誰から習うたか。又、自分で勝手に復習しつろう」
と云うのであった。そのたんびに、子供心に「どこが違うのだろう。習った通りに稽古したつもりだが」……と不思議に思い思いしたという。(佐藤文次郎氏談)
◇
高弟梅津朔造氏はもう五十を越していた。斑白頭《はんぱくあたま》の瘠せこけた病身の人で、喘息《ぜんそく》が持病であったが、頑健な翁によく舞台の上で突飛ばされた。当時二十歳前後の屈強の青年であった梅津利彦氏なども、やはり突飛ばされた組で、当時九歳か十歳であった筆者ですらもその例に洩れなかった。
但し筆者は幼少であった故《ゆえ》か、こうした体刑を受けた事は極めて稀であった代りに、「ソラソラ……又……又ッ」という大喝の下に遣り直させられた事が、大人よりも多かったように思う。
中の舞の初段の左右の型のところで気が掛からないと云って十遍ばかり遣り直させられてスッカリ涙ぐんだあとで、利彦氏が同じ稽古(男舞)で又やり直し十数回の後、とうとう突飛ばされてしまったのを見て、「出来ないのは自分ばかりじゃないな」と窃《ひそか》に得意になった事もある。
翁の晩年の弟子の中で最も嘱望《しょくぼう》されていたのは斎田惟成氏であった。この人の稽古振りや能の舞いぶりを筆者は在京中であったために、あまり見ていなかったが、よほど烈しいものがあったと伝え聞いている。
やはり五十近かった氏に、口の開き方が悪いと云って張扇を突込んだり、「首が縮む、シャンとせよ」と云って張扇で鼻の下からハネ上げて鼻血を出させたりしたという話である。しかもそれが冬の極寒の時であったというから随分辛かったであろう。むろんその鼻血ぐらいの事で稽古中止にはならない。斎田氏は襟元を血だらけにしたまま舞い続けたという。
◇
梅津朔造氏の「安宅」の披露能の時であった。勧進帳が済んで関所を越え、下曲《くせ》前のサシ謡のところへ来るとシテの朔造氏がホッとしたものか、急に持病の喘息が差込んで来て、「たださながらに十余人」の謡を謡いさしたまま息を呑んでシテ座に平伏してしまった。
そこで謡を誰が代りに謡ったか記憶しないが下曲を終り、ワキとの懸合《かけあ》いに入ると、やっと朔造氏が気息を繕《つくろ》って顔色蒼然たるまま謡い出し、山伏舞を勤め終ったが、その焦瘁《しょうすい》疲労の状は見るも気の毒な位であった。
朔造氏は幕に這入ると、装束のまま楽屋の畳の上に平伏して息も絶え絶えに噎《む》せ入ったが、その背後から翁が、
「ええい……このヒョロヒョロ弁慶……ヒョロヒョロ弁慶……」
と罵倒する大声が、舞台、見所《けんしょ》は勿論、近隣までも響き渡ったので、観衆は皆眼を丸くして顔を見合わせていた。
その時の筆者は十四五歳であったろうか。何事かと思って見所から楽屋を覗きに行ったものであったが、その時の翁の声と顔付の恐ろしかった事を想起すると、今でも肌に粟を生ずる思いがある。
◇
梅津利彦氏が十七八歳頃の事であったろうか。右手に赤塗のお盆を持って翁の後から舞台に行くので、子供心に何事かと思って随《つ》いて行った。
元来利彦氏のお稽古は、翁が自分の芸の後継者と思っていたのであろう。極度の酷烈を極めたものであったので、私は見るに忍びないために滅多にお稽古を拝見せず、外で遊ぶ事にきめていたのであった。
ところが舞台に入ってみると、「野守《のもり》」の「切《きり》」のお稽古で、その稽古振りの猛烈なこと、とても形容の及ぶところでない。武道、その他の勝負等の場合には、相手の調子によって気合いが抜ける場合がないとも限らないが、能の仕舞の如きは、体力、芸力の気合いが寸分の隙間もなく続いて行かねばならぬ。……その気合いを抜いて上手に舞おうと心掛けるのは負けて逃げるのと同じこと。喜多流では許さぬ。「それじゃけに喜多流は六《むず》かしい」……と翁が人に話していた言葉を記憶しているが、正にその通りで、殊に「野守」の仕舞の如きは、その前後に見た翁の稽古の中でも最も峻厳、酷烈を極めたものであったように思う。舞台面のモノスゴサに惹きつけられて、身動きも出来ず見ているうちに、体を緩めたり、気を抜く余裕なんか只の一刹那もないところを翁が教育している事が、子供心にもハッキリとわかった。
血気盛んな利彦氏が渾身の気合いをかけて前進し、非常な勢いで身をかわして踏み止まろうとするが、止まれない。腰が浮き上ってノメリそうになる。そこを全力を上げて踏み止まると、鏡代用の赤いお盆を持つ左手の気が抜けている。
翁は「ホラホラッ。それで鏡に見えるかッ」とか、「鬼ぞ鬼ぞ。地獄の鬼ぞ。鬼神ぞ鬼神ぞ。ヒョロヒョロ腰の人間ではないぞないぞ」と皮肉を怒号しながら滅多無性に張扇をタタキまくる。
利彦氏の顔は見る見る汗と涙にまみれて、肩は大浪を打ち、息は嵐のように息吹《いぶ》き初める。精も根も尽き果てながら舞い終って片膝を突くと、「さあ、今一度舞え。最後の気合いが途中で抜けちゃ詰まらん。鬼ぞ鬼ぞ。地獄の鬼神ぞ。ええか……おそろしや打火かがやく鏡の面に……」とアシライはじめる。さながらの地獄の光景である。
そのうちに利彦氏の腰付が心気の疲労のためいよいよ危くなって来ると、とうとう翁が癇癪《かんしゃく》を起して、張扇を二本右手に持ってヒョロヒョロと立上って来た。この頃から翁は軽い中風の気味で、左足を引擦《ひきず》っていたのであるが、利彦氏が突飛ばされた拍子に投出した赤いお盆を拾い取ると、翁は自身で朗々と謡いながら舞い初めたが驚いた。
その身体《からだ》の軽い事。まるで木の葉のようにヒラヒラと身を翻《ひるが》えす。赤いお盆がそれこそサーチライトのようにギラリギラリと輝きまわり屈折しまわる。おしまいに三尺ばかり飛上って座った翁の膝の下から起った音響の猛烈だったこと、板張が砕けたかと思った。
「この通り……ようと(充分の意)稽古しておきなさい」
と窘《たしな》めておいて、翁は筆者を振返った。
「さあ。今度はアンタじゃ。『敦盛』じゃったのう」
「ハイ」
と答えたまま筆者は後見座に釘付になって立上れなかった事を記憶している。あんまり固くなって足がシビレていたのだ。
◇
翁の皮肉も亦《また》、尋常でなかった。何やらの地謡の申合わせの時に、翁の居間の机の前に六七人並んで謡《うたい》合わせながら翁に聴いてもらっていた。
その中の某氏(名前は預かる)が謡の文句をつないでいなかったらしく、小さな声で地頭の謡にくっ付いて行った。
それを聞き咎《とが》めた翁はアシライの手をピタリと止めて、皆の顔を覗き込むように見まわした。
「誰かいな。誰か一人小さい声で謡い居るが、聞き苦しゅうてたまらん。誰かいな」
とギョロギョロ見まわした。ナアニ……翁はその小さい声の主をちゃんと知っていたのであるが、特に窘《たしな》めるために故意とこうした意地の悪い態度を執《と》ったものである。
そうして幾度も幾度も根気強く「誰かいな誰かいな」を繰返して、トウトウ「私で御座います」と白状させた。
「怪しからん。充分謡が出来もせぬ癖に大切なお能の舞台に出ようとするけに、他人《ひと》に迷惑をかけて、要らざる恥を掻きなさる。その心掛がいかん。私は出来ませんと云うて、何故最初から遠慮しなさらんかいな。鍛練に鍛練を重ねても十分につとまるかどうか判らぬとがお能の常習《つね》じゃ。そげな卑屈な心掛で舞台に出ても宜《え》えものと思うて居《お》んなさるとな。私の眼の黒いうちは其様《そげ》な事は許さん。今度の地謡にはアンタ一人出席を断る。この次から了簡を入れ換えて来なさい」
とうとうその場で某氏は抓《つま》みのけられてしまった。
そのお能の当日の地謡の真剣さというものは恐ろしい位の出来であったという。(故林直規氏談)
◇
或る時、やはり五六人の門下が並んで同吟していた。相当出来た人ばかりであったが、その中の一人が正座した足趾《あしゆび》の先で拍子を取っているのを敏感な翁が発見した。
「コラコラ。お前は足の先で拍子をとり居ろうが」
その人は愕然《がくぜん》として色を失った。翁は怫然として言葉を続けた。
「拍子謡はならぬと云うのに何故コソコソと拍子を取んなさるか。其様《そげ》に拍子を取って謡いたいならほかの遊芸をば稽古しなさい。まっと面白かもんのイクラでもある」(桐山孫二郎氏談)
◇
度々筆者自身の事を書くので如何にも名聞がましくて気が差すが平にお許しを願いたい。
筆者の祖父は旧名三郎平、黒田藩の応接方で後、灌園と号し漢学を教えて生活していた。私は生れると間もなくからその祖父母の手一つで極度に甘やかして育てられたものであった。
祖父は旧藩時代から翁のお相手のワキ役を仰付られ、春藤流(今は絶えた)脇方の伝書聞書を持っていた。
そのせいか祖父灌園は非常というよりも、むしろ狂に近い只圓翁の崇拝者であった。筆者の父や叔父、親類連中は勿論のこと、同郷出身の相当の名士や豪傑が来ても頭ごなしに遣り付ける、漢学者一流の頑固な見識屋であったにも拘らず、翁の前に出ると、筆者が五遍ぐらいお辞儀をする間、額を畳にスリ付けてクドクドと何か挨拶をしていた。まるで何か御祈祷をしているようであった。
翁から何か云われると、犬ならば尻尾を振切るくらい嬉しそうに、
「ハイ。ハイ。ハイハイハイハイ……」
と云ってウロタエまわった。
その祖父灌園は方々の田舎で漢学を教えてまわった挙句《あげく》、やっと福岡で落ち付いて、筆者が大名小学校の四年生に入学すると直ぐに翁の許に追い遣った。
「武士の子たる者が乱舞を習わぬというのは一生の恥じゃ」
といった論法で、面喰っている筆者の手を引いて中庄の翁の処を訪うて、翁の膝下《しっか》に引据えて、サッサと入門させてしまった。その怖い怖い祖父が、翁の前に出ると、さながら二十日鼠《はつかねずみ》のように一《ひ》と縮みになるのを見て筆者も文句なしに一縮みになった。封建時代の師弟の差は主従の差よりも甚だしくはなかったかと今でも思わせられている位であった。
まだ十歳未満の筆者が、座ったまま翁と応待していると、祖父が背後からイキナリ筆者の頸筋を掴まえて鼻の頭と額をギュウと畳にコスリ付けた事があった。礼儀が足りないという意味であったらしい。
前へ
次へ
全15ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
杉山 萠円 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング