れた。
この大祭は催能前の二箇月間に亘って執行されたもので、祭能当時は日本全国、朝野の貴顕紳士が参向したほかに、古市公威、前田利鬯子爵等が下県して能を舞われた。
同社に保管されている番組を見ると、その能組の豪華盛大さと、これを主宰した翁の苦心が首肯されるばかりでなく、その当時の翁の門下、当地方の能楽界一流どころの名前が歴然として残っている。現在生存して居られる知人故旧の人々の、思い出の種として、略するに忍びないから左に掲げておく。
御能組(第一日)
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◇翁 (シテ)梅津利彦 (三番叟)高原神留 (千歳)生熊生 (大鼓)高畠元永 (小鼓頭取)栗原伊平 (脇鼓)本松卯七郎、石橋英七 (笛)中上正栄
◇老松 (シテ)梅津朔造 (シテツレ)大賀小次郎 (ワキ)小畑久太郎 (ワキツレ)梅津昌吉 (大鼓)宮崎逸朔 (小鼓)河原田平助 (太鼓)国吉静衛 (笛)杉野助三郎 (間)岩倉仁郎
◇粟田口 (狂言)野田一造、野村祐利、高原神留
◇八島 (シテ)山崎友樹 (シテツレ)戸畑宗吉 (ワキ)高木儀七 (大鼓)竹尾吉三郎 (小鼓)石橋英七 (笛)辻儀七 (間、那須語)高原神留
◇抜売 (狂言)岸本作太、在郷三五郎
◇羽衣 和合舞(シテ)古市公威 (ワキ)小畑久太郎 (ワキツレ)諸岡勝兵衛 (大鼓)吉村稱 (小鼓)河原田平助 (太鼓)国吉静衛 (笛)中上正栄
◇花盗人 (狂言)岩倉仁郎、高原神留、野田一造、城戸甚次郎、秋吉見次、野村久、生熊生
◇鞍馬天狗 白頭(シテ)前田利鬯 (シテツレ)石蔵利吉、石蔵利三郎、加野宗三郎 (ワキ)西島一平 (大鼓)清水嘉平 (小鼓)栗原伊平 (太鼓)国吉静衛 (笛)杉野助三郎 (間)野村祐利、在郷三五郎、生熊生
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御能組(第二日)
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◇巻絹《まきぎぬ》 (シテ)梅津利彦 (シテツレ)梅津昌吉 (ワキ)西島一平 (大鼓)清水嘉平 (小鼓)藤田正慶 (太鼓)国吉静衛 (笛)杉野助三郎 (間)在郷三五郎
◇棒縛《ぼうしばり》 (狂言)在郷三五郎、岩倉仁郎、高原神留
◇夜討曾我 (シテ)大野徳太郎 (シテツレ)梅津利彦、小田部正次郎、藤田平三郎、楢崎徳助、梅津昌吉、井上善作、諸岡勝兵衛 (大鼓)宮崎逸朔 (小鼓)栗原伊平 (笛)杉野助三郎 (間)在郷三五郎、生熊生
◇禰宜山伏《ねぎやまぶし》 (狂言)野村祐利、岸本作太、野田一造、秋吉見次
◇花筐《はながたみ》 (シテ)前田利鬯 (シテツレ)山崎友樹、安永要助 (ワキ)西島一平 (大鼓)吉村稱 (小鼓)河原田平助 (笛)中上正栄
◇鷺 (仕舞)梅津只圓
◇山姥 (囃子)(シテ)南郷茂光 (大鼓)吉村稱 (小鼓)河原田平助 (太鼓)国吉静衛 (笛)中上正栄
◇鉢木《はちのき》 (シテ)古市公威 (シテツレ)山田清太郎 (ワキ)小畑久太郎 (ワキツレ)吉浦彌平 (大鼓)高畠元永 (小鼓)斉村霞栖 (笛)中上正栄 (間)生熊生
◇鬮罪人《くじざいにん》 (狂言)高原神留、岩倉仁郎、生熊生、野村久、城戸甚次郎、秋吉見次
◇烏帽子折《えぼしおり》 (シテ)梅津朔造 (シテツレ)白木半蔵、上村又次郎、梅津昌吉、吉浦彌平、大野徳太郎、小田部正次郎、藤田平三郎、井上善作 (ワキ)小出久太郎 (ワキツレ)諸岡勝兵衛 (大鼓)宮崎逸朔 (小鼓)上田勇太郎 (太鼓)国吉静衛 (笛)辻儀七 (間)野村久、城戸甚次郎、野村祐利、岸本作太、高原神留
◇附祝言
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この能の両日、楽屋を指導監督していた翁の姿を見られた古市公威氏が帰途、車中で嘆息しながら独語賛嘆された。
「梅津只圓という者は聞きしに勝る立派な人物である。あのような品位ある能楽師を余はまだ嘗《かつ》て見た事がない」
という話柄が今日に伝わっている。
明治四十一年頃から翁の身体の不自由が甚だしくなって、座っていられない位であったが、それでも稽古は休まなかった。
その明治四十一年か二年かの春であったと思う。梅津朔造氏が「隅田川」の能のお稽古を受けた。それは翁の最後のお能のお稽古であったが、翁は地謡《じうたい》座の前の椅子に腰をかけ、前に小机を置いてその上に置いた張盤《はりばん》を打って朔造氏の型を見ていた。地頭は例によって山本毎氏であったが、身体は弱っても翁の気象は衰えぬらしく、平生と変らぬ烈しい稽古ぶりであった。
ところがその途中で翁が突然にウームと云って椅子の上に反《そ》り返ったので、近まわりの人々が馳け寄って抱き止めた。それから大騒ぎになって、附近の今泉に住んでいる権藤|国手《こくしゅ》を呼んで来る。親類に急報する。注射よ。薬よという混雑を呈したが、間もなく翁が寝床の上で正気付き、気息が常態に復して皆に挨拶し、権藤国手も安心して帰ったので皆ホッと愁眉を開いた。
ところが梅津朔造氏がその枕頭に手を突いて、
「それでは、これでお暇《いとま》を……」
と御挨拶をすると翁がムックリ頭を擡《もた》げて左右に振った。
「おお。朔造か、いかんいかん。まだ帰ることはならん。今一度舞台へ来なさい。あげなザマではいかん」
と云い出して頑として諾《き》かない。
皆舌を捲いて驚き且つ惑うた。この非凡な翁の介抱に顔を見合わせて困り合ったが、結局、翁の頑張りに負けて今一度、稽古を続ける事になった。
門弟連中が又も舞台に招集された。その中で、翁は元の通り椅子に凭《もた》れて稽古を続けたが、今度は疲れないように翁の胴体を帯で椅子に縛り付け、弟子の一人が背後からシッカリと抱えて「隅田川」一番の稽古を終った。
翁は、それ以来全く床に就き切りになったが、それでも仰臥したまま、夜具の襟元の処に脚の無い将棋盤のような板を置き張扇でバタバタとたたいて弟子の謡を聞いた。
明治四十三年の四月、桜の真盛りに、福岡市の洲崎お台場の空地(今の女専所在地)で九州沖縄八県聯合の共進会があった。頗《すこぶ》る大規模の博覧会同様のものであった上に、日露戦争直後であったため非常な人気で、福岡名物、全市無礼講の松囃子が盛大に催されて賑った。
翁の門下の人々は高齢で臥床中の翁に赤い頭巾と赤い胴衣を着せ、俥《くるま》で東中洲「菊廼屋《きくのや》」(今の足袋の広告塔下ビール園、支那料理屋附近)という料亭に運び、そこで食事を進めて後、その頃はまだ珍らしかった籐《とう》の寝椅子に布団を展《の》べて翁を横たえ、二本の棒を通し、人夫に担架させ、門弟諸氏が周囲を取巻いて、翁に共進会場を見物させた。
これは翁の門下岩佐専太郎氏の思い付であったらしいが、全福岡市の称讃を博し、新聞にも翁の担架姿が写真入りで大きく芽出度く書き立てられた。
翁の病臥後、門下の人々はさながらに基督《キリスト》門下の十二使徒のような勢で流勢の拡張に努力した。梅津朔造氏は南大牟田市を中心として三池地方に勢力を張り、山本毎氏は東田川郡を中心として伊田、後藤寺に根を下し、炭坑地方を開拓した。
その他の門下諸氏も福岡市外に門戸を張って子弟を誘導し、各神社の催能を盛大にしたが、一方に在福の連中の中でも既に三年間翁に師事していた故梅津正保氏等を含む一団の高弟連中は毎月一回|宛《ずつ》、村上彦四郎氏邸や、その他の寺院等で謡会を開いた。
その中心となって指導していたのは斎田惟成氏(当時福岡地方裁判所勤務)で、その会を開く前日は必ず翁の枕頭に集まって役割の通りに謡って翁の叱正を受けた。万一翁のお稽古が出来ない場合には会の方を延期するという真剣さであった。
その素謡《すうたい》会の席上で梅津正保君の調子が余りに大きいので、調子の小さい河村武友氏が嫌って前列に逐《お》い遣ったという挿話などがあった。
翁の臨終の前年頃になると、翁の老衰の程度が、時々段落を附けて深くなったものであろう。出張教授をしている梅津朔造氏や山本毎氏等の処へ度々至急電報が飛んだ。
最初のうちは両氏等も倉皇として翁の枕頭に駈け付けたが、その後同じような至急電報が頻々として打たれたので、両氏も自然と狼狽しなくなった。そう急に死ぬ老先生ではないというような一種の信念が出来たものらしかった。
そのうち明治何年であったか、京都で何かの大能が催さるるとかで、翁の状態を知らぬ旧知、金剛謹之介氏から翁に出演の勧誘状が来た。
その手紙を見た翁は直ぐに傍《かたわら》をかえりみて云った。
「折角の案内じゃけに行こう。まだ舞えると思うけに京都迄行って、一生の思い出に直面《ひためん》の『遊行柳《ゆぎょうやなぎ》』を舞うてみよう」
傍《かたわら》の人々は驚いた。急遽門弟を招集して評議した結果、翁の健康状態が許さぬ理由の下に翁を諫止《かんし》してしまった。万事に柔順な翁は、この諫止に従ったらしいが嘸《さぞ》かし残念であったろうと思う。こうした出来事には人道問題、常識問題等が加味して来るから一概には是非を云えないが、まことに翁のために、又は能楽のために残り惜しい気がして仕様がない。舞台で倒れるのは翁の本懐であったに違いなかったのだから……。後年、熊本の友枝三郎翁が、「雨月」を舞い終ると同時に楽屋で急逝したことは心ある人々の讃嘆するところであった位だから。
明治四十三年(翁九十四歳)、日韓合併の年の七月二日、風雨の烈しい日であった。
柴藤《しばとう》精蔵氏(当時二十三歳)は朝から翁の所へ行って謡のお稽古を受けていたが、その途中で翁が突然に「オーン」と唸り声を上げた。同時に容態が急変したらしいので、枕頭にいた老夫人と女中も狼狽して柴藤氏をして医師を呼びに遣った。
柴藤氏は狼狽の余り跣足《はだし》で戸外に飛出したが、風雨の中の非常な泥濘をズブ濡れの大汗で、権藤病院に馳け付けて巻頭に掲げた翁の主治医寿三郎先生を引っぱって来た。
寿三郎先生の手当で翁の容態の急変は一時落付く事になったが、寿三郎氏はその時既に「最早《もはや》絶望」と思ってしまったという。だから冒頭に掲げた翁の臨終の逸話は、その翌日の事である。
翁の容態の急変が三度が三度とも能楽のお稽古の最中であった事は、翁の能楽師としての生涯の崇高さを一層悲痛に高潮させる所以ではあるまいか。
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梅津只圓翁の逸話
翁の逸話として何よりも先に挙げなければならないのは、翁自身の勉強の抜群さと、子弟の教育の厳格さであった。
翁は毎朝未明(夏冬によって時刻は違うが)に必ず起上ってタッタ一人で袴《はかま》を着け、扇を持って舞台に出て、自分で謡って仕舞の稽古をする。翁の養子になっていた梅津利彦氏(現牟田口利彦氏)などは遠方の中学校へ行くために早く起きようとすると、早くも翁の足踏の音が舞台の方向に聞こえるので、又夜具の中へ潜り込んだという利彦氏の直話である。こうした刻苦精励が翁の終生を通じて変らなかった事は側近者が皆実見したところであった。
前記の通り晩年、足腰が不叶《ふかな》いになって臥床するようになっても、稽古人が来ると喜んで、仰臥したまま夜具の襟元でアシライつつ稽古を附けてやった。傍《かたわら》の人が、余りつとめられると身体に障るからといって心配しても、「何を云う。家業ではないか」と云って頑として稽古を続けた。
◇
弟子に対する稽古の厳重、慎重であった事は、事柄が事柄だけに最も多く云い伝えられている。殆んど数限りがない位である。
翁の弟子には素人玄人の区別がなかった。又弟子の器用無器用、年齢の高下、謝礼の多少なぞは一切問題にせずに、殆んど弟子をタタキ殺しかねまじき勢いで稽古を鍛い込んだ。一人も稽古人が来なくなっても構わない勢いで残忍、酷忍、酷烈なタタキ込み方をした。むろん御機嫌を取って弟子を殖《ふ》やそうなぞいう気は毛頭なかったので、現今のような幇間《ほうかん》式お稽古の流行時代だったら瞬く間に翁の門下は絶滅していたであろう。
翁のこうした稽古振の裡面には、よしや日本中の能楽が滅亡するとも、自分の信ずる
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