て囃子方に附合い過ぎるので翁から叱られる位であったという。

          ◇

 又斎田惟成氏は比較的後進だったので特にこの方面の研究を急いだらしく、出勤の途中でも、銭湯の中でも妙な放神状態で両手を動かして地拍子の取り通しであった。氏の居住地薬院附近では、これが名物だったので、道で遊んでいる子供等までも氏が来ると、
「斎田さん斎田さん」
 と云って両手を鰭《ひれ》のように動かしながら反り身になって氏の背後から跟《つ》いて行って、氏が振返ると逃げて来た。現教授佐藤文次郎君などもその真似上手の一人であったという。

 そんな次第であったから翁の門下の高足の人は、決して翁の歿後に福岡地方で流行したような我武者羅謡ではなかった。むしろ拍子の当りが確か過ぎるのを只圓翁が嫌って、今一層向上させるべく鞭撻《べんたつ》していたのを後人が、自分の力の足りなさから、自己流に解釈して、芸道を堕落させたものに相違ないのである。
 以上は拍子嫌いの我儘流諸氏、もしくば地拍子天狗の諸氏にとっては共に不愉快な記事かも知れぬが、翁の歿後、翁の訓言が如何に強く響き残っていたかという例証としてここに掲げておく。

          ◇

 故男爵安川敬一郎氏は先年筆者にかく語った。
「私が能に志したのは六十歳の時であった。当時福岡は只圓翁のお蔭で喜多流全盛の時代であった。喜多流に非ざれば能楽に非ずという勢いであった。そこでそれならば自分は一つ宝生流を福岡に広めてやろう。喜多流ばかりが能でないという事を事実に証明してやろう……という程のことでもなかったが、それ位の意気組でわざと宝生流のために尽力した。そのような訳合いで健次郎(松本氏)などと違うて私は翁の直門という訳ではない。しかし鼓を担いで翁の門下の人々の能をつとめたのは六十歳の時以来度々であった。あのような立派な先生が又現われるかどうかわかったものでない。私は今でも鼓と、宝生流の研究では若い者に負けないつもりである。年齢こそ八十の坂を越しているが、能に入ったのが六十歳だから能楽の弟子としてはまだ二十歳の血気盛りのつもりでいる。なまけてはいられぬと思うが、何しろ年で、鼓が肩の上でコロコロと運動するのでなあ。ハッハッハッ」

          ◇

 只圓翁は前記の通り稽古の上で素人と玄人の区別をしなかった。大勢の弟子を取っている人でも、自分一人の楽みにしている人間でも老若を問わず一列一体の厳格さでタタキ付けた。生半《なまなか》な喜多流を残すよりはタタキ潰した方が天意に叶うと思っていたらしい精進ぶりであった。
 そのために翁の歿後、翁の遺風を継ぎ、翁の衣鉢《いはつ》を伝えるに足る中心人物が、今の福岡には一人も居ない。
 これは筆者の俗情には相違ないが、只圓翁が今少しく理想を低くして俗情になずみ、その指導振りをモット素人向きに、わかり易く門下の芸能と調和させていてくれたならば、こんな事にはならなかったであろう……なぞと時折り思う事がある。筆者も翁の門下から途中で逃げ出した一人だから斯様な事をいう資格はないが。
 しかし又、一方から考えると只圓翁のような大達人は歴史上の英雄と同様、百年に一人出るか出ないかわからないのが通例である。況《いわ》んや福岡のような僻地に於てをやである。それだからといって言句を絶し、情理を超越した真の能楽の精神を強いて言句、情理の末に残そうとするのは、後に非常な弊害を残すことになる。それよりも「絶後の悲哀を覚悟していい加減な相伝者を残さぬ」という翁の行き方の方が、真の能楽の精神を後世に伝うる所以であったかも知れぬ。「命は天に在り。人間の工夫何の用か成さむ。斃《たお》れて後止む」というのが翁の末期の一念であった事が今にして思い当られるようである。
 翁百世の後、翁の像を仰いで襟を正す人在りや無しや。
 思うて此に到る時、自から胸が一パイになる。
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   只圓翁歿後の事


 これは蛇足かも知れないが、只圓翁歿後の福岡の喜多流界の状況を序《ついで》に簡単に書き添えておく。
 翁の歿後は前記梅津朔造氏、同昌吉氏及び斎田惟成氏が立方《たちかた》を指導し、山本毎氏が謡曲方面を宣揚していた。この諸氏が相前後して歿した後は河村、林、上原、水上(泰生氏父君)、持山、藤原の諸氏が謡曲を指導し、又能の方は大野徳太郎、柴藤精蔵両氏が熊本の大家故友枝三郎翁に師事し、次で現師範友枝為城氏、敏樹氏の両大家に参じ、観世流の諸氏と協力して各神社の祭事能を継続し、その他大小の能、囃子等を受持って東都家元六平太師を招いて、只圓翁の追善能記念事業を計画するなぞ福岡の斯界《しかい》を風靡していた。
 而して今から二十余年前大野徳太郎氏の歿後、福岡喜多会が成立するや、博多喜多流関係の能装束等の保管方を依頼されていた柴藤精蔵教授これが会長となり、或は梅津正保師範の来福指導に、又は家元六平太先生を中心とする演能の開催に努力し、その他数次の演能を開催して流風の宣揚に力《つと》めたものであるが、大正の大震災後に至り現師範梅津正利氏が来福するや更に一段の緊張を来し、両者相提携して同地方の能楽に於ける研究法の是正と、流勢の拡張に努力した。
 かくの如く福岡の喜多流の今日在るは全く故只圓翁の遺徳を基礎としたもので、翁の遺訓は今以て他流の人士の間にも伝わり、翁の清廉無慾と翁の堂々たる芸風とは今も尚流内の人口に膾炙《かいしゃ》している。
 然るに博多順正寺に在る只圓翁の墓は、後嗣梅津謙助氏が遠隔の地に居らるる故か久しく忘れられていた。ただ旧門下で小謡組であった佐藤文次郎氏が毎年忌日忌日に参詣するほか、藤原宏樹氏、柴藤精蔵氏が時折参詣するばかりで、正月の元旦に梅を持って参詣に行く事にきめていた筆者もその後怠り勝ちになって、勝手な時や序の時に立寄って拝む位の不孝さに陥っていた。

 然るに昨昭和八年の七月初旬に例年の如く只圓翁の墓を訪うた佐藤文次郎氏は、「梅津只圓翁墓」と刻んだ墓石がいつの間にか「梅津家累代墓」一基に合葬されてアトカタもなくなっているのに驚き、急に主となって奔走して旧門下古賀得四郎氏、同柴藤精蔵氏、同筆者等に謀《はか》った結果、銅像建設の議が起った。しかし前述の通り旧門下といっても指を屈する程度にしか残存していないので、大きな計画は無論出来ない。そのために前記諸氏の間で色々評議を重ねているところへ古賀得四郎氏の友人、春吉の医師松田盛氏の紹介で糸島出身の彫塑《ちょうそ》家津上昌平氏がこの評議に参加した。
 津上氏は帝展に数回特選され、数多の名士の銅像を作った人であるが、席上梅津只圓翁の人格を聞き、次いでその写真数葉を見るに及んで非常に感激し、吶々《とつとつ》たる口調で、
「実に立派な人ですなあ。私はこんなお爺さんの顔を見るのは初めてです。失礼ですが私は私費を投じてもこのお爺さんの銅像を製作したいです。是非一つ思う存分に作らせて下さい」
 と云うので間もなく、昭和九年春の大寒中、古賀氏住宅附近の空屋に泊り込み、寝食を忘れて製作に熱中し出した。
 そうして筆者等の予算計画の約二倍大に当る等身大の座像をグングン捏《こ》ね上げ初め、十数日後には、筆者等が見ても故人に生写しと思われる程の手法鮮かな、生けるが如き原型を作り上げた。それから毎晩半徹夜の努力を払って自ら石膏の型を取り、自身に荷造りして即刻東京に持帰る途中、岡山で土台石まで自身に選択し、東都で自身監督の下に鋳造させるという感激振りを示した。
 翁の塑像製作中、津上氏は古賀氏、佐藤氏、筆者等が傍《かたわら》で語る只圓翁の逸事を聞きながら、
「愉快ですなあ。立派な人ですなあ。製作するのに気持ちがいいですなあ」
 と打喜び、東京へ出発の際翁の石膏像を動かしながら、
「私は大きな拾い物をしました」
 と眼をしばたたいた程の感激振りであった。そうしてまだ発起人連中の予算の相談も纏まらぬ中《うち》に、前掲の如き見事な銅像と土台石が津上氏から古賀得四郎氏の許へ到着したので、筆者等は少なからず狼狽させられながらも津上氏の感激振りに心から感激した。同時に今更のように只圓翁の遺徳の高大さを仰いだ次第であった。
 しかしここに困った事は津上氏の感激のために、ほかの場合では一番最後に後《おく》れて出来上り勝ちの銅像が、まだ何事も決定しない一番先に出来上ってしまった事である。敷地は既に翁の後嗣梅津謙助氏の好意で薬院中庄の翁の旧宅跡に決定されたが、右につき津上氏の誠意は別の事としても、そのためには最初の計画の約二倍、すなわち約二千円の寄附金を集めなければならぬ。そのために発起人会を後から催して運動を初めねばならぬという滑稽且つ、悲惨な順序に陥ってしまったのみならず、その寄附金を集むべく種々奔走の結果、予定の二千円のやっと半額程度しか集まらず、製作者津上氏が自弁していた銅像建設の実費を弁償し得た以上には、ほとんど謝礼らしい謝礼すら出来ないという窮況に陥ってしまった事であった。
 これは一に筆者等数名の不調法で赤面の外ない。製作者津上氏の素志如何に拘らず、誠に慚愧《ざんき》お気の毒に堪えない次第であるが、これも翁の歿後を飾る一つの大きな、美しい話柄……翁の遺徳のために吾々の微力が圧倒された事蹟として大方の憫笑に価すれば幸である。
 事は故翁から習ったに過ぎない一教授佐藤文次郎氏の謝恩の一念から起り、全くの赤の他人である彫塑家津上昌平氏の感激から来た犠牲的熱意によって完成された事業である。その他関係者諸氏の目に見えない犠牲を加算したならば、翁の遺徳の世道人心に入る事の如何に深く且つ大きいかは到底想像も及ばない位であろう。
 もしこの不況険悪の時勢に於て無用|不廉《ふれん》の事を起し一時の名聞《みょうもん》を求むるものとして一笑に附する人士が在ったならば、それは余りにも心なき人々として吾々は怨《うら》まざるを得ない。
 世道日々に暗く、功利の争塵刻々に深き今日、その反動として地方郷土の名士、有志の清廉高潔なる人士が陸続として苔下に喚起され、天日下に表彰されつつ有るは誠に吾国人固有の美徳、純情の泥土化していない事を証するものとして意を強うするに足るものがある。這般《しゃはん》の事業の国民精神に影響する事の如何に深遠なるものがあるかを疑い得ない次第である。
 況《いわ》んや、師恩の高大さを伝うるのは吾々門下の責務である。吾々が親しく翁より相伝した斯道の純志であり真面目である。その力及ばず。その能到らず。茲《ここ》に翁の霊前に叩頭して罪を謝し、大方の高助を得て翁の像を作り、蕪文を列ねて翁の伝を物し、翁の聖徳を涜《けが》す。ただこの高齢、高徳の士、不世出の国粋芸術家梅津只圓翁の真骨頂を世に伝えたい微衷に他ならない事を御諒恕賜わらば幸甚である。
 尚、この『梅津只圓翁伝』を物するに当って各方面から有力な材料、話柄、指導等を賜わった諸氏は一々列挙に暇《いとま》がない位である。更めて紙上を以て謝意を表する。

     梅津只圓翁銅像除幕式 (福岡日日新聞抜萃)

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 福岡黒田藩喜多流の先覚者梅津只圓翁の銅像除幕式は十四日(昭和九年十月)午前十一時より福岡市中庄只圓翁旧宅庭前に於て、翁の直孫牟田口利彦氏を始め武谷軍医官、梅津正利師範、旧門弟宇佐元緒、古賀得四郎氏以下多数参列の下に盛大に挙行せられた。
 修祓、降神行事に次で一同起立裡に直孫牟田口利彦氏の除幕あり、斎主後藤警固神社宮司の祝詞奏上、発起者代表古賀得四郎氏、縁故者牟田口利彦氏、常任理事佐藤文次郎氏、来賓総代武谷軍医監の玉串|奉奠《ほうてん》ありて、古賀発起人総代の挨拶、佐藤理事の工事報告、武谷軍医監の祝辞ありて正午閉式、引続いて祝宴に移り翁の逸話懐旧談に歓を尽し一時過ぎ散会した。因に同銅像は昨秋十月旧門弟一同発起となり一月着工、胸像は福岡県糸島郡出身彫塑家津上昌平氏の献身的努力により作製されたものである。
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     只圓翁銅像工事報告[#地から2字上げ]佐藤文次郎

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