見る見るハッキリとなり、突然に喘鳴《ぜんめい》が聞こえ初めたと思うと、老先生は如何にも立腹されたらしく、仰臥して眼を閉じたまま眉根を寄せて不快そうに垢《あか》だらけの頭を左右に動かされた。
 二人の老人は真青になって汗を拭き拭き顔を見交わした。そうして二人で二三度同じ処を謡い直されたと思ったが、間もなく左右に振り続けて居られた老先生の頭が安定し、喘鳴がピッタリと止んで『その通りその通り』という風に老先生の頭が枕の上で二三度縦に緩やかに動いたと思うと、又|旧《もと》の通りの短い呼吸の裡にスヤスヤと眠って行かれた。家内の御方が慌てて何か云うて居られたがモウ何の御返事もなかった。
 二人の老人はそのお枕元の畳に両手を突いて暫く涙に暮れていたが、私が『モウ宜しいですか』と念を押すと、『お蔭で』と非常に感謝されたので、そのまま御内の方に御注意を申上げて退出した。
 老先生はそのままその夜の中に御他界になったが、その時の医師としての私の驚きは非常なものがあった。
 あのような深い昏睡に陥って居られる、申さば断末魔の老先生が御門弟の謡の間違いを聞きわけられる。これを是正されるという事は如何に芸術の力
前へ 次へ
全142ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
杉山 萠円 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング