能楽の格だけは断じて崩すまい。その精神で上は神明に仕え下は自己の修養に資しようという無敵、潔白の自負と、いい加減な弟子を後世に残して流風を堕落させては師匠の相伝に対して相済まぬ。それよりも自分の門下を絶った方が正しいという非常時的な大決心が一貫していた事が、明らかに認められる。
能楽は平時の武士道の精華である。舞台はその戦場である。だから稽古は生命を棄てて芸道に生きる方便である。すなわち「捨身成仏《しゃしんじょうぶつ》」が芸道の根本精神でなければならぬ……というのが翁自身のモットーであり、数々の訓戒に含まれている不言不語の点睛であったらしい。次のような逸話の数々が残っている。
◇
翁は初心者が復習する事を禁じた。新しい小謡を習った青少年達が帰りがけに翁の表門を出ると、直ぐに大きな声で嬉しそうに連吟して行くのを聞き付けた翁は、その次の稽古日に必ず訓戒した。
「お前達はあのような自分勝手な謡を自分勝手に謡うことはならぬ。必ず私の前に来て謡いなさい。そうせねば謡が崩れて悪い癖が付く。一度悪い癖が付くとなかなか直らぬものだ」
弟子達は皆恥じて小さくなった。しかし、
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