た。その節御供した御納戸組九人の中、翁は長知公の御招待客席で、御囃子、仕舞等度々仰付られた。そのほか所々に召連れられて御囃子、仕舞等を仰付られたとあるが、察するところ長知公も翁の至芸が余程の御自慢であったらしい。
明治元年といえば鳥羽伏見の戦《いくさ》を初め、江戸城の明渡、会津征伐等、猫の眼の如く変転する世相、物情騒然たる時節であったが、その中に、かほどの名誉ある優遊を藩公と共にしていた翁の感懐はどんなものであったろうか。
晩年の翁が栄達名聞を棄て、一意旧藩主の知遇に奉酬する態度を示した心境は或《あるい》はこの間に培われたものではあるまいか。
明治二年四月四日、長知公は新都東京へ上られた。翁も例によって御供をして荒戸の埠頭から新造の黒田藩軍艦|環瀛《かんえい》丸に乗り、十三日東京着。隔日の御番(当番)出仕で、夜半二時迄の不寝番をつとめた。毎月お扶持方として金十五円二歩を賜わった。
この時翁の師匠、喜多能静氏(喜多流十三世家元。現家元六平太氏は十四世)は根岸に住んでいたが、その寓居を訪うた翁は「到って静かで師を尋ねて来る人もなかった」と手記している。
しかしこれは矢張り翁独特
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