束預かりを仰付《おおせつけ》られた。これは藩の能楽家柄として最高無上の名誉であると同時に、藩内の各流各種の催能はすべて翁の支配下に属しなければならぬという大責任が、それから後翁の双肩に落下した訳である。
かくしてこの神曲「翁」披露能後に認められた翁の人格と芸能の卓抜さがその後引続いて如何に名誉ある活躍を示したか……そうしてその間に於ける翁の精進が如何に不退転なもので在ったかは、後掲の記録を一見しただけでも一目瞭然であろう。
不幸にしてその頃は封建時代で、その時代特有の窮屈な規範に縛られ易い能楽の事とて、翁の声価も極めて小範囲に限って認められていた憾《うら》みがある。前にも述べた通り万一これが、ほかの大衆的な芸術で、封建の障壁が取払われている現代であったならば、芸術界に於ける翁の威望はどの範囲にまで及んでいたであろうか。
嘉永七年(安政元年利春三十八歳)三月。福岡市天神町水鏡天満宮二百五十年御神祭につき、表舞台(今の城内練兵場、旧射的場附近御下屋敷所在)で三日とも翁附の大能を拝命した。殊に藩公の御所望で、物習能《ものならいのう》(普通の能ではない、達人でなければ舞えない秘伝の曲目)
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