臆測類似の聞き伝えで、或《あるい》は筆者の聞き誤りか記憶違いかも知れない。況《いわ》んや宗家の記録と甚しい時代の相違があり、引例考証らしいものすら絶無であるから、ただ何かの参考としてここに記載しておくに止める。
 それから物変り星移って徳川時代に入り、筑前福岡が黒田の城下となった時、その梅津の本家の方は博多に在住してその頃の所謂《いわゆる》町役者となり、山笠に名高い博多の氏神、櫛田《くしだ》神社の神事能を受持っていた。現梅津正利師範は故梅津正保師範と共にこの家系の末に当っているのであるが、同時にその分家である今一軒の梅津氏は観世流の藤林家と相並んで藩公黒田家のお抱えとなり、邸宅と舞台を薬院|中庄《なかしょう》に賜わり士分に列せられていた。
 その後裔《こうえい》に当る黒田藩士梅津源蔵正武氏(正利氏令息で隠居して一朗といった)と、その妻判女(児玉氏)との間に一女二男が生まれた。
 兄は文化十四年丁丑四月十七日出生、梅津源蔵利春という。初め政之進、又は栄と名のっていたが、藩主長溥公の御沙汰によって改名したものである。それが後に隠居して只圓と号した。すなわち我が只圓翁であった。
 利春(只圓
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