小田原提灯を畳んだようになるのを小謡組の少年連が不思議そうに見上げていると、
「フムフム。可笑《おか》しいのう」
 と云って翁自身も笑った。
 しかしその飴を分けてくれた事は一度もなかった。喰い余りを旧《もと》の通り叮嚀に竹の皮に包んで老夫人に渡すと、茶碗の中の義歯《いれば》を静かに頬張って、以前の厳格な顔に還った。弟子の方を向いて張扇を構えた。
「モグモグ。さあ謡いなさい」

          ◇

 夕方になると翁は一合入の透明な硝子《ガラス》燗瓶に酒を四分目ばかり入れて、猫板の附いた火鉢の上に載せるのをよく見受けた。前記喜多六平太氏の談によると翁は七五三に酒を飲んだというが、これは晩の七の分量に相当する分であったろう。
 翁の嗜好は昔から淡白で、油濃いものが嫌いと老夫人がよく他人に吹聴して居られた。
 筆者も稽古が遅くなった時、二三度夕食のお相伴をしたことがあるが、遠慮のないところ無類の肉類好きの祖父の影響を受けた自宅《うち》の夕食よりも遥かに粗末な、子供心に有難迷惑なものであった。
 そのうちに翁は真赤になった顔を巨大な皺だらけの平手で撫でまわして、「モウ飯」と云った。燗瓶に
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