が得も云われず神々しかった。
 光雲《てるも》神社の祭能の時は拝領の藤巴の紋の付いた、鉄色の紋付に、これも拝領物らしい、茶筋の派手な袴を穿いている事もあった。その時の襟は茶か水色であったように思う。老夫人が能の前日、広袖の襦袢に火のしをかけて襟を附け換えて御座った。

          ◇

 稽古を離れると翁は実になつかしい好々爺であった。地獄の鬼から急に極楽の仏様に変化するのが子供心に不思議で仕様がなかった。たとえば八十八賀の時、能のアトで、
「元気は元気じゃが、倅の方が先にお浄土参りしてしもうた。クニャクニャになって詰まらん」
 と云って門弟連中を絶倒させた。それから赤い頭巾に赤い緞子《どんす》(であったと思う)のチャンチャンコを引っかけて、鳩の杖を突いて、舞台の宴会場から帰りしなに、
「乳の呑みたい。乳のもう乳のもう」
 と七十歳近い老夫人に戯れたりした。

          ◇

「さあ飴を食うぞ」
 と翁が云うと老夫人が、大きな茶碗に水を入れたのを翁の前に捧げる。翁はそれに上下の義歯《いれば》を入れてから水飴やブッキリ飴を口に抓《つま》み込んでモグモグやる。長い翁の顔が
前へ 次へ
全142ページ中113ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
杉山 萠円 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング