げ]
「右藤堂様より伯父(只圓翁)帰宅後、小生今晩は何の御所望なりしやと問いしに右様の次第を話して、あの謙遜家にも聊《いささ》か得意の色見え申候」
[#ここで字下げ終わり]
 とあるところを見ると、この逸話は翁の生涯中の秀逸ではないかと思われる。

          ◇

 筆者は不幸にして装束を着けた翁の舞台姿を一度も見た事がない。
 ただ一度翁の八十八賀能の前日の申合わせの夜であったと思う。門弟中の地謡で翁が「海人」の仕舞を舞ったのを見た。そのほか日々の稽古や他人の稽古を直して御座るのを横から見た姿を思い合わせると、翁の舞台姿がどうやら眼前に彷彿されるようである。
 甚だ要領を得難い評かも知れないが、翁の型を見た最初に感ずる事は、その動きが太い一直線という感じである。同時に少々|穿《うが》ち過ぎた感想ではあるが、翁の芸風は元来器用な、柔かい、細かいものであったのを尽《ことごと》く殺しつくして、喜多流の直線で一貫した修養の痕跡が、どこかにふっくりと見えるような含蓄のある太い、逞しい直線であったように思う。曲るにしても太い鋼鉄の棒を何の苦もなく折り曲げるようなドエライ力を、その軽い動
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