は舞台に立った筆者を見上げ見下してニコニコした。
「ほう。これは大きゅうなった。もう面《おもて》をかけんとおかしいのう。面をかけると序の舞やら楽《がく》やら舞うけに面白いがのう。ハテ。何にしようか。今度一度だけ『小督《こごう》』にしようか。うむ、『小督』にしよう『小督』にしよう。『土蜘』もええが糸の投げようがチット六かしかろう」
筆者は「土蜘」が舞いたくて舞いたくてたまらなかった。ずっと以前に河原田翁の追善能で見た金剛某氏の仏倒れや一の松への宙返りをやって見たくて仕様がなかったが、翁が勝手に「小督」にきめてしまったので頗《すこぶ》る悲観した。
その中《うち》に中学を落第しそうになって稽古を休んだのをキッカケにとうとう翁の処へ行かなくなった。唯「湯谷《ゆや》」のツレと「景清」のツレで面をかけて稽古した切り、シテとしては面を掛けずに終った。
その永い間翁が筆者に傾注してくれた精魂がドレ位であったろうか。その広大な師恩をアトカタもなく返上してしまった不孝の程は悔いても及ばない今日である。
◇
いよいよ謡の稽古が済むと、まだ文句のつながらないうちにサッサと舞台にかかる。
翁は筆者が謡い終って本を閉じると(誰に対しても同様であった)張扇を二本右手に持って、
「サア」
と筆者を一睨《ひとにらみ》しながら立上る。心持ち不叶《ふかな》いな左足を引ずり引ずり舞台に出る。この頃から既に、お能の神様、兼、カンシャクの神様が翁に乗り移っていたように思う。
◇
舞台は京間ではなかったように思う。普通の六尺三間、橋がかり三間で、平生は橋掛り共に雨戸がピッタリと閉まって真暗い。
鏡板の松は墨絵で、シテ座後方の鴨居に「安和堂」と達筆に墨書した木額が上げて在った。たしか侯爵黒田長成公の筆であったと聞いている。
その雨戸を翁に手伝って北と東と橋がかりを各一枚宛開いて、あとを平均五六寸宛|隙《す》かす。それから翁はワキ座と地謡座のちょうど中間の位置に在る張盤の前に敷いた薄い茶木綿の古座布団上に座る。
初めのうちは誰でもワキの詞《ことば》を云う翁に向ってアシラッたのでよく叱られた。翁の詞がいつでも真剣だったので、ツイその方向に釣り込まれる傾向もあった。
◇
ところでこちらは幕の前に引返して立っていると翁はこっちをジロリと見て、今一度「サア」と云う。同時に一声とか次第とかをアシライ初める。
「イヨオオ――。ハオオーハオオー」
と云ううちに坦々蕩々たるお能らしい緊張味が薄暗い舞台一面に漲《みなぎ》り渡る。そのうちに大小の頭《かしら》が来ると翁がソッと横目でこっちを見る。見ない事もあるが、大抵見る場合が多いのだからその時に要領よく受けて出るので、後《おく》れたり早過ぎたりすると翁がパチパチと張扇を叩いて今一度、一声なり次第なりを繰返しながら遣直《やりなお》させる。しかもそのタタキ加減がその日の低気圧のバロメーターになるので、これは老幼を問わず同様の感想であったらしい。
翁はアシライが中々達者で、役者が橋がかりへ這入る時に打つ次第のヨセ工合がなかなかよかったので囃子方が皆感心して耳を傾けたという。
◇
翁は普通の稽古を附ける場合には袴《はかま》を穿《は》かなかった。これは謹厳な翁に似合わぬ事であったが事実であった。荒い型をして見せる時には着流しの裾の間から白い短い腰巻と黒い骨だらけの向脛《むこうずね》が露出した。
◇
翁は張盤の前に正座した時、必ず足の拇指《おやゆび》を重ね合わせていた。その重なり合った拇指がいつ動くかと思って、大野君と二人で翁の背後の脇桟敷から長い事凝視していた事があったが、決して動かないので根負けした事があった。
張扇は大抵眼の高さの処まで上げた。肱は両脇から柔かく離し、向うへ伸ばして軽くバタバタとたたいた。肱から手首と張扇の尖端が柔かい一直線を描いて、上っても下っても狂わなかった。
張扇が張盤を離れるのと掛声が起るのが同時だったので、どうかすると張扇が声を出しているような錯覚を感じた。遠くから見ていると一層そんな感じがした。
張扇は必ず自分で貼った。筆者も一度貼り方を習ったが忘れてしまった。
「この角の処をこうして……」
と云う翁の声だけが耳に残っている。
掛声をかけたり、地謡を謡ったりしているうちに、翁の上顎の義歯《いれば》が外れ落ちてガチャリと下歯にぶつかる事が度々であった。
「衣笠山……ガチャリ。モグモグ……ムニャムニャ……面白の夜遊《やゆう》や……ガチャリ……モグモグ……ヨオチポポオポッポヨオイチョン……ホラホラしおりしおり……ガチャリ……モグモグ……ホオホオ」
といった調子であった。
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