果ではなかったろうかと思われる。
 要するに健康そのもののようにガッチリと逞しい、声の太い、大きな爺さんであった。

          ◇

 稽古は二五八、三六九の日に分けて、四の日七の日十の日が翁の休日であったらしい。何かの都合で、その休みの日に行くと翁はセッセと野菜畑で働いていたりしたが、直ぐに足を洗って来て稽古をしてくれた。休み日だからといって決して悪い顔をしたり稽古を断ったりしなかった。
 初めて小謡を習いに行くと、翁は半紙を一帖出して自分で紙縒《こより》をひねって綴じる。それから墨を磨って表紙に「小謡」と書いて、その右下に弟子の姓名を書く。その一枚をめくって、
「サア、何がよかろうのう」
 なぞとニコニコ独言《ひとりごと》を云いながら、二句ぐらいの簡単な和吟に胡麻節《ごまふし》を附けたのを書いて投与える。それを畳の上に置いて待っていると、翁が机の横から這い出して来て真正面に座る。
「そうそう。チャンと両手を膝に置いて」
 とお行儀を教えながら二度程繰り返して附けてくれる。それでも出来ないと、蠅打の柄や、張扇で頭をピシャリとたたく事もあった。
 その次に来ると今一度謡わせられて、恙《つつが》なく記憶《おぼ》えていると又一つ新しいのを書いてもらえる。すこし上達して来ると、
「節の附かんとも時々は良かろう」
 と云って文句ばかりを書いてくれることもあった。最初は面喰ったが後には慣れて来た。
 翁が書いてくれた小謡本には略字や変体仮名が多いので、習って帰ると直ぐに朱で仮名を附けたものであったが、翁は別に咎めなかった。

          ◇

 毎年一月の四日にはお鏡開きといって、お稽古に来る子供ばかりを座敷に集めて、翁が小豆雑煮(ぜんざいのようなもの)を振舞った。それがトテモ美味しくて熱いので、喰っている子供連は一人残らず鼻汁を垂らしたのをススリ上げススリ上げしていた。
 翁はニコニコと眺めていた。(佐藤文次郎氏談)

          ◇

 だんだん上達して来ると本番(全曲)を習う。
 筆者は三歳ぐらいから祖父に仕込まれていて、翁の処へ入門した時は数番の謡を丸暗記していたのでイキナリ本番を習ったものであったが、むろんこちらから曲目を撰む事は出来なかった。翁が本人の器量に応じて次の月並能の番組を斟酌《しんしゃく》しながら撰んでくれるのであった。
 翁の処へ稽古に行くと、玄関の上り框《がまち》の処(机に向っている翁の背後)に在る本箱から一冊引出して開いてくれる。時には、
「その本箱を開けてみなさい。その何冊目の本の何という標題の処を開けてみなさい」
 と指図する事もあった。
 それを最初から一枚ぐらい宛《ずつ》、念を入れて直されながら附けてもらうので、やはり二度ほど繰り返しても記憶《おぼ》え切れないと叱られるのであった。
 その本はたしか安政二年版行の青い表紙で、「ウキ」「ヲサヘ」や「ヤヲ」「ヤヲハ」又は廻し節、呑み節を叮嚀に直した墨の痕跡と胡粉《ごふん》の痕跡が処々残っている極めて読みづらい本であった。
 この翁の遺愛の本は現在神奈川県茅ヶ崎の野中家に保存して在る筈である。

          ◇

 翁は一番の謡を教えると必ずその能を舞わせる方針らしかった。
 筆者は九歳の時に「鍾馗《しょうき》」の一番を上げると直ぐにワキに出された。シテはたしか故大野徳太郎君であったと思うが、お互に受持の言葉を暗記するかしないかに二人向き合って申合わせをさせられたので、間違うたんびに笑っては叱られた。
 そんな風であったから筆者は小謡とか仕舞とか囃子とかいうものが存在している事をかなり後まで知らずに過ごした。

          ◇

 こうして習っては舞い習っては舞いした稽古順は大略左の通りである。これ以て誠に名聞《みょうもん》がましいが、何かの参考になるかも知れないと思って記憶している通りを書き止めておく次第である。
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(一)鍾馗ワキ(二)同シテ(三)鞍馬天狗ツレ(四)経政(五)嵐山半能(六)俊成忠度(七)花月(八)敦盛(九)土蜘ツレ(十)巻絹ツレ(十一)小袖曾我(十二)夜討曾我――これ以後の順序明瞭に記憶せず、(十三)猩々(十四)小鍛冶(十五)岩船半能(十六)烏帽子折子方(十七)田村(十八)殺生石直面(十九)羽衣ワキ(二十)是界(二十一)蘆苅(二十二)箙《えびら》(二十三)湯谷《ゆや》ツレ(二十四)景清ツレ――但これは稽古だけで能は中止(二十五)船弁慶ツレ、及、海人子方同時(二十六)田村(二十七)土蜘――但し稽古だけにて能は舞わず(以上)
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 その他「清経」シテ、「三井寺《みいでら》」ツレ等が四五番あったと思うが、ハッキリ記憶しない。
 そのうちに十六七歳になったので、翁
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