師を呼びに遣った。
柴藤氏は狼狽の余り跣足《はだし》で戸外に飛出したが、風雨の中の非常な泥濘をズブ濡れの大汗で、権藤病院に馳け付けて巻頭に掲げた翁の主治医寿三郎先生を引っぱって来た。
寿三郎先生の手当で翁の容態の急変は一時落付く事になったが、寿三郎氏はその時既に「最早《もはや》絶望」と思ってしまったという。だから冒頭に掲げた翁の臨終の逸話は、その翌日の事である。
翁の容態の急変が三度が三度とも能楽のお稽古の最中であった事は、翁の能楽師としての生涯の崇高さを一層悲痛に高潮させる所以ではあるまいか。
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梅津只圓翁の逸話
翁の逸話として何よりも先に挙げなければならないのは、翁自身の勉強の抜群さと、子弟の教育の厳格さであった。
翁は毎朝未明(夏冬によって時刻は違うが)に必ず起上ってタッタ一人で袴《はかま》を着け、扇を持って舞台に出て、自分で謡って仕舞の稽古をする。翁の養子になっていた梅津利彦氏(現牟田口利彦氏)などは遠方の中学校へ行くために早く起きようとすると、早くも翁の足踏の音が舞台の方向に聞こえるので、又夜具の中へ潜り込んだという利彦氏の直話である。こうした刻苦精励が翁の終生を通じて変らなかった事は側近者が皆実見したところであった。
前記の通り晩年、足腰が不叶《ふかな》いになって臥床するようになっても、稽古人が来ると喜んで、仰臥したまま夜具の襟元でアシライつつ稽古を附けてやった。傍《かたわら》の人が、余りつとめられると身体に障るからといって心配しても、「何を云う。家業ではないか」と云って頑として稽古を続けた。
◇
弟子に対する稽古の厳重、慎重であった事は、事柄が事柄だけに最も多く云い伝えられている。殆んど数限りがない位である。
翁の弟子には素人玄人の区別がなかった。又弟子の器用無器用、年齢の高下、謝礼の多少なぞは一切問題にせずに、殆んど弟子をタタキ殺しかねまじき勢いで稽古を鍛い込んだ。一人も稽古人が来なくなっても構わない勢いで残忍、酷忍、酷烈なタタキ込み方をした。むろん御機嫌を取って弟子を殖《ふ》やそうなぞいう気は毛頭なかったので、現今のような幇間《ほうかん》式お稽古の流行時代だったら瞬く間に翁の門下は絶滅していたであろう。
翁のこうした稽古振の裡面には、よしや日本中の能楽が滅亡するとも、自分の信ずる能楽の格だけは断じて崩すまい。その精神で上は神明に仕え下は自己の修養に資しようという無敵、潔白の自負と、いい加減な弟子を後世に残して流風を堕落させては師匠の相伝に対して相済まぬ。それよりも自分の門下を絶った方が正しいという非常時的な大決心が一貫していた事が、明らかに認められる。
能楽は平時の武士道の精華である。舞台はその戦場である。だから稽古は生命を棄てて芸道に生きる方便である。すなわち「捨身成仏《しゃしんじょうぶつ》」が芸道の根本精神でなければならぬ……というのが翁自身のモットーであり、数々の訓戒に含まれている不言不語の点睛であったらしい。次のような逸話の数々が残っている。
◇
翁は初心者が復習する事を禁じた。新しい小謡を習った青少年達が帰りがけに翁の表門を出ると、直ぐに大きな声で嬉しそうに連吟して行くのを聞き付けた翁は、その次の稽古日に必ず訓戒した。
「お前達はあのような自分勝手な謡を自分勝手に謡うことはならぬ。必ず私の前に来て謡いなさい。そうせねば謡が崩れて悪い癖が付く。一度悪い癖が付くとなかなか直らぬものだ」
弟子達は皆恥じて小さくなった。しかし、それでも謡いたいので、門を出ると翁に聞こえぬ位の小声で謡って、だんだん遠くなると大声で怒鳴りながら家へ帰ると、いよいよ大得意になって習い立ての小謡を謡った。家人も梅津先生から習い立ての謡というと謹んで聞いたものだという。
ところがその次の翁の稽古日に翁の前で復習させられると、直ぐに我儘謡を謡った事を看破されて驚き且つ赤面した。
「そげな節をば誰から習うたか。又、自分で勝手に復習しつろう」
と云うのであった。そのたんびに、子供心に「どこが違うのだろう。習った通りに稽古したつもりだが」……と不思議に思い思いしたという。(佐藤文次郎氏談)
◇
高弟梅津朔造氏はもう五十を越していた。斑白頭《はんぱくあたま》の瘠せこけた病身の人で、喘息《ぜんそく》が持病であったが、頑健な翁によく舞台の上で突飛ばされた。当時二十歳前後の屈強の青年であった梅津利彦氏なども、やはり突飛ばされた組で、当時九歳か十歳であった筆者ですらもその例に洩れなかった。
但し筆者は幼少であった故《ゆえ》か、こうした体刑を受けた事は極めて稀であった代りに、「ソラソラ……又……又ッ」という大喝の下に遣り直
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