で正気付き、気息が常態に復して皆に挨拶し、権藤国手も安心して帰ったので皆ホッと愁眉を開いた。
ところが梅津朔造氏がその枕頭に手を突いて、
「それでは、これでお暇《いとま》を……」
と御挨拶をすると翁がムックリ頭を擡《もた》げて左右に振った。
「おお。朔造か、いかんいかん。まだ帰ることはならん。今一度舞台へ来なさい。あげなザマではいかん」
と云い出して頑として諾《き》かない。
皆舌を捲いて驚き且つ惑うた。この非凡な翁の介抱に顔を見合わせて困り合ったが、結局、翁の頑張りに負けて今一度、稽古を続ける事になった。
門弟連中が又も舞台に招集された。その中で、翁は元の通り椅子に凭《もた》れて稽古を続けたが、今度は疲れないように翁の胴体を帯で椅子に縛り付け、弟子の一人が背後からシッカリと抱えて「隅田川」一番の稽古を終った。
翁は、それ以来全く床に就き切りになったが、それでも仰臥したまま、夜具の襟元の処に脚の無い将棋盤のような板を置き張扇でバタバタとたたいて弟子の謡を聞いた。
明治四十三年の四月、桜の真盛りに、福岡市の洲崎お台場の空地(今の女専所在地)で九州沖縄八県聯合の共進会があった。頗《すこぶ》る大規模の博覧会同様のものであった上に、日露戦争直後であったため非常な人気で、福岡名物、全市無礼講の松囃子が盛大に催されて賑った。
翁の門下の人々は高齢で臥床中の翁に赤い頭巾と赤い胴衣を着せ、俥《くるま》で東中洲「菊廼屋《きくのや》」(今の足袋の広告塔下ビール園、支那料理屋附近)という料亭に運び、そこで食事を進めて後、その頃はまだ珍らしかった籐《とう》の寝椅子に布団を展《の》べて翁を横たえ、二本の棒を通し、人夫に担架させ、門弟諸氏が周囲を取巻いて、翁に共進会場を見物させた。
これは翁の門下岩佐専太郎氏の思い付であったらしいが、全福岡市の称讃を博し、新聞にも翁の担架姿が写真入りで大きく芽出度く書き立てられた。
翁の病臥後、門下の人々はさながらに基督《キリスト》門下の十二使徒のような勢で流勢の拡張に努力した。梅津朔造氏は南大牟田市を中心として三池地方に勢力を張り、山本毎氏は東田川郡を中心として伊田、後藤寺に根を下し、炭坑地方を開拓した。
その他の門下諸氏も福岡市外に門戸を張って子弟を誘導し、各神社の催能を盛大にしたが、一方に在福の連中の中でも既に三年間翁に師事していた故梅津正保氏等を含む一団の高弟連中は毎月一回|宛《ずつ》、村上彦四郎氏邸や、その他の寺院等で謡会を開いた。
その中心となって指導していたのは斎田惟成氏(当時福岡地方裁判所勤務)で、その会を開く前日は必ず翁の枕頭に集まって役割の通りに謡って翁の叱正を受けた。万一翁のお稽古が出来ない場合には会の方を延期するという真剣さであった。
その素謡《すうたい》会の席上で梅津正保君の調子が余りに大きいので、調子の小さい河村武友氏が嫌って前列に逐《お》い遣ったという挿話などがあった。
翁の臨終の前年頃になると、翁の老衰の程度が、時々段落を附けて深くなったものであろう。出張教授をしている梅津朔造氏や山本毎氏等の処へ度々至急電報が飛んだ。
最初のうちは両氏等も倉皇として翁の枕頭に駈け付けたが、その後同じような至急電報が頻々として打たれたので、両氏も自然と狼狽しなくなった。そう急に死ぬ老先生ではないというような一種の信念が出来たものらしかった。
そのうち明治何年であったか、京都で何かの大能が催さるるとかで、翁の状態を知らぬ旧知、金剛謹之介氏から翁に出演の勧誘状が来た。
その手紙を見た翁は直ぐに傍《かたわら》をかえりみて云った。
「折角の案内じゃけに行こう。まだ舞えると思うけに京都迄行って、一生の思い出に直面《ひためん》の『遊行柳《ゆぎょうやなぎ》』を舞うてみよう」
傍《かたわら》の人々は驚いた。急遽門弟を招集して評議した結果、翁の健康状態が許さぬ理由の下に翁を諫止《かんし》してしまった。万事に柔順な翁は、この諫止に従ったらしいが嘸《さぞ》かし残念であったろうと思う。こうした出来事には人道問題、常識問題等が加味して来るから一概には是非を云えないが、まことに翁のために、又は能楽のために残り惜しい気がして仕様がない。舞台で倒れるのは翁の本懐であったに違いなかったのだから……。後年、熊本の友枝三郎翁が、「雨月」を舞い終ると同時に楽屋で急逝したことは心ある人々の讃嘆するところであった位だから。
明治四十三年(翁九十四歳)、日韓合併の年の七月二日、風雨の烈しい日であった。
柴藤《しばとう》精蔵氏(当時二十三歳)は朝から翁の所へ行って謡のお稽古を受けていたが、その途中で翁が突然に「オーン」と唸り声を上げた。同時に容態が急変したらしいので、枕頭にいた老夫人と女中も狼狽して柴藤氏をして医
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