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 筆者の祖父は馬鹿正直者で、見栄坊で、負けん気で、誰にも頭を下げなかったが、しかし只圓翁にだけはそれこそ生命《いのち》がけで心服していた。
 神事能や翁の門下の月並能の番組が決定すると、祖父の灌園は総髪に臘虎《らっこ》帽、黄八丈に藤色の拝領羽織、鉄色献上の帯、インデン銀|煙管《ぎせる》の煙草入、白足袋に表付下駄、銀柄の舶来洋傘(筆者の父茂丸が香港から買って来たもので当時として稀有のハイカラの贅沢品)という扮装《いでたち》で、喰う米も無い(当時一升十銭時代)貧窮のただ中に大枚二円五十銭の小遣(催能の都度に祖父が費消する定額)を渫《さら》って弟子の駈り出しに出かけたので、祖母や母はかなり泣かされたものだという。
 祖父はこうして翁門下の家々をまわって番組を触れまわる。舞台の世話、装束のまわりまで「その分心得候え」を繰返して奔走しては、出会う人毎に自分が行かないと能が出来ないような事を云っていたらしい。二三十銭の会費を出し渋ったり、役不足を云ったり、稽古を厭がったりする者があると、帰って来てからプンプン憤《おこ》って、「老先生に済まん済まん」と涙を流していたという。

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 その頃博多に梅津朔造氏等の先輩で××という人が居たが、非常に器用な人で師伝を受けずに自分の工夫で舞って素人の喝采を博していた。その人が翁の稽古を肯《がえ》んぜず、色々と難癖を附けて翁を誹謗《ひぼう》したので、祖父は出会う度に喧嘩をした。
「彼奴は流儀の御恩を知らぬ奴じゃ。お能で飯を喰うて行きよるけに老先生も大目に見て御座るが、今に見よれ。罰というものはあのような奴に当るものじゃ」
 と口を極めて悪態を吐《つ》いていたが、あんまり度々云うので筆者はその科白《せりふ》を暗記してしまった。どうやら××氏には祖父の方が云い負けていたらしい悪口ぶりであった。

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 筆者の祖父は装束扱いがお得意で、楽屋の取まわしが好きだったらしい。舞台から引込んで来ると、自分の装束を脱がないまま他人の装束を着けている姿をよく見かけた。
 月並能の後、一人頭二三十銭宛切り立てて舞台で御馳走を喰うのが習慣になっていたが、御馳走といっても、味飯《かやくめし》に清汁《すまし》、煮〆程度の極めて質素なものであった。ところで、その席上で気に入らぬ事があると、祖父は只圓
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