来利彦氏のお稽古は、翁が自分の芸の後継者と思っていたのであろう。極度の酷烈を極めたものであったので、私は見るに忍びないために滅多にお稽古を拝見せず、外で遊ぶ事にきめていたのであった。
ところが舞台に入ってみると、「野守《のもり》」の「切《きり》」のお稽古で、その稽古振りの猛烈なこと、とても形容の及ぶところでない。武道、その他の勝負等の場合には、相手の調子によって気合いが抜ける場合がないとも限らないが、能の仕舞の如きは、体力、芸力の気合いが寸分の隙間もなく続いて行かねばならぬ。……その気合いを抜いて上手に舞おうと心掛けるのは負けて逃げるのと同じこと。喜多流では許さぬ。「それじゃけに喜多流は六《むず》かしい」……と翁が人に話していた言葉を記憶しているが、正にその通りで、殊に「野守」の仕舞の如きは、その前後に見た翁の稽古の中でも最も峻厳、酷烈を極めたものであったように思う。舞台面のモノスゴサに惹きつけられて、身動きも出来ず見ているうちに、体を緩めたり、気を抜く余裕なんか只の一刹那もないところを翁が教育している事が、子供心にもハッキリとわかった。
血気盛んな利彦氏が渾身の気合いをかけて前進し、非常な勢いで身をかわして踏み止まろうとするが、止まれない。腰が浮き上ってノメリそうになる。そこを全力を上げて踏み止まると、鏡代用の赤いお盆を持つ左手の気が抜けている。
翁は「ホラホラッ。それで鏡に見えるかッ」とか、「鬼ぞ鬼ぞ。地獄の鬼ぞ。鬼神ぞ鬼神ぞ。ヒョロヒョロ腰の人間ではないぞないぞ」と皮肉を怒号しながら滅多無性に張扇をタタキまくる。
利彦氏の顔は見る見る汗と涙にまみれて、肩は大浪を打ち、息は嵐のように息吹《いぶ》き初める。精も根も尽き果てながら舞い終って片膝を突くと、「さあ、今一度舞え。最後の気合いが途中で抜けちゃ詰まらん。鬼ぞ鬼ぞ。地獄の鬼神ぞ。ええか……おそろしや打火かがやく鏡の面に……」とアシライはじめる。さながらの地獄の光景である。
そのうちに利彦氏の腰付が心気の疲労のためいよいよ危くなって来ると、とうとう翁が癇癪《かんしゃく》を起して、張扇を二本右手に持ってヒョロヒョロと立上って来た。この頃から翁は軽い中風の気味で、左足を引擦《ひきず》っていたのであるが、利彦氏が突飛ばされた拍子に投出した赤いお盆を拾い取ると、翁は自身で朗々と謡いながら舞い初めたが驚いた。
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