させられた事が、大人よりも多かったように思う。
中の舞の初段の左右の型のところで気が掛からないと云って十遍ばかり遣り直させられてスッカリ涙ぐんだあとで、利彦氏が同じ稽古(男舞)で又やり直し十数回の後、とうとう突飛ばされてしまったのを見て、「出来ないのは自分ばかりじゃないな」と窃《ひそか》に得意になった事もある。
翁の晩年の弟子の中で最も嘱望《しょくぼう》されていたのは斎田惟成氏であった。この人の稽古振りや能の舞いぶりを筆者は在京中であったために、あまり見ていなかったが、よほど烈しいものがあったと伝え聞いている。
やはり五十近かった氏に、口の開き方が悪いと云って張扇を突込んだり、「首が縮む、シャンとせよ」と云って張扇で鼻の下からハネ上げて鼻血を出させたりしたという話である。しかもそれが冬の極寒の時であったというから随分辛かったであろう。むろんその鼻血ぐらいの事で稽古中止にはならない。斎田氏は襟元を血だらけにしたまま舞い続けたという。
◇
梅津朔造氏の「安宅」の披露能の時であった。勧進帳が済んで関所を越え、下曲《くせ》前のサシ謡のところへ来るとシテの朔造氏がホッとしたものか、急に持病の喘息が差込んで来て、「たださながらに十余人」の謡を謡いさしたまま息を呑んでシテ座に平伏してしまった。
そこで謡を誰が代りに謡ったか記憶しないが下曲を終り、ワキとの懸合《かけあ》いに入ると、やっと朔造氏が気息を繕《つくろ》って顔色蒼然たるまま謡い出し、山伏舞を勤め終ったが、その焦瘁《しょうすい》疲労の状は見るも気の毒な位であった。
朔造氏は幕に這入ると、装束のまま楽屋の畳の上に平伏して息も絶え絶えに噎《む》せ入ったが、その背後から翁が、
「ええい……このヒョロヒョロ弁慶……ヒョロヒョロ弁慶……」
と罵倒する大声が、舞台、見所《けんしょ》は勿論、近隣までも響き渡ったので、観衆は皆眼を丸くして顔を見合わせていた。
その時の筆者は十四五歳であったろうか。何事かと思って見所から楽屋を覗きに行ったものであったが、その時の翁の声と顔付の恐ろしかった事を想起すると、今でも肌に粟を生ずる思いがある。
◇
梅津利彦氏が十七八歳頃の事であったろうか。右手に赤塗のお盆を持って翁の後から舞台に行くので、子供心に何事かと思って随《つ》いて行った。
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