の手法鮮かな、生けるが如き原型を作り上げた。それから毎晩半徹夜の努力を払って自ら石膏の型を取り、自身に荷造りして即刻東京に持帰る途中、岡山で土台石まで自身に選択し、東都で自身監督の下に鋳造させるという感激振りを示した。
 翁の塑像製作中、津上氏は古賀氏、佐藤氏、筆者等が傍《かたわら》で語る只圓翁の逸事を聞きながら、
「愉快ですなあ。立派な人ですなあ。製作するのに気持ちがいいですなあ」
 と打喜び、東京へ出発の際翁の石膏像を動かしながら、
「私は大きな拾い物をしました」
 と眼をしばたたいた程の感激振りであった。そうしてまだ発起人連中の予算の相談も纏まらぬ中《うち》に、前掲の如き見事な銅像と土台石が津上氏から古賀得四郎氏の許へ到着したので、筆者等は少なからず狼狽させられながらも津上氏の感激振りに心から感激した。同時に今更のように只圓翁の遺徳の高大さを仰いだ次第であった。
 しかしここに困った事は津上氏の感激のために、ほかの場合では一番最後に後《おく》れて出来上り勝ちの銅像が、まだ何事も決定しない一番先に出来上ってしまった事である。敷地は既に翁の後嗣梅津謙助氏の好意で薬院中庄の翁の旧宅跡に決定されたが、右につき津上氏の誠意は別の事としても、そのためには最初の計画の約二倍、すなわち約二千円の寄附金を集めなければならぬ。そのために発起人会を後から催して運動を初めねばならぬという滑稽且つ、悲惨な順序に陥ってしまったのみならず、その寄附金を集むべく種々奔走の結果、予定の二千円のやっと半額程度しか集まらず、製作者津上氏が自弁していた銅像建設の実費を弁償し得た以上には、ほとんど謝礼らしい謝礼すら出来ないという窮況に陥ってしまった事であった。
 これは一に筆者等数名の不調法で赤面の外ない。製作者津上氏の素志如何に拘らず、誠に慚愧《ざんき》お気の毒に堪えない次第であるが、これも翁の歿後を飾る一つの大きな、美しい話柄……翁の遺徳のために吾々の微力が圧倒された事蹟として大方の憫笑に価すれば幸である。
 事は故翁から習ったに過ぎない一教授佐藤文次郎氏の謝恩の一念から起り、全くの赤の他人である彫塑家津上昌平氏の感激から来た犠牲的熱意によって完成された事業である。その他関係者諸氏の目に見えない犠牲を加算したならば、翁の遺徳の世道人心に入る事の如何に深く且つ大きいかは到底想像も及ばない位であろう。
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